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2009/09/21

■節子への挽歌750:「人」とは「相互支援の形」

節子
今年はシルバーウィークというのがあります。
秋の5連休です。
節子がいたら箱根に行っていたでしょう。
今年はむすめたちと行こうと話してはいましたが、誰も結局は具体的に動かず、そのうちにそれぞれいろいろと用事が入ってきてしまい、行けなくなってしまいました。
父親に付き合いたいと思うような娘はいるはずもありませんので、期待したのは私の甘えだったわけです。

節子がいなくなってから、私の行動力は大きく鈍ってきています。
いかに節子が私にとってのエンジンだったかがわかります。
伴侶がいなくなると、人の活動量は大きく変わりますが、その方向は増加もあれば減少もあるようです。
私の場合は、大きく減少しています。
一人になって身軽になる人も多いでしょうが、私はどうも心身が重くなりました。
これまでも何回かそう書いてきましたが、実際に重くなるのです。

概して女性よりも男性の方が行動量は「減少する」ようです。
「人」という文字は2本の棒が支えあっている形ですが、左が男性、右が女性と、よく言われます。
右の棒が左の棒を支えているわけですが、右の棒がなくなると左の棒はバタンと倒れて動かなくなるのに対し、左の棒がなくなると右の棒は抑えていたものがなくなり自由に伸びだすわけです。
そういわれると、そんな気もしてきます。

先日会った人からは、動きが鈍ったのは自立していなかったことの結果だよといわれました。
たしかにそうかもしれません。
しかし、私が言うのもなんですが、節子もあまり自立していませんでした。
節子も、私のようになかなか立ち直れずにいるでしょうか。
こればかりは何とも言えませんが、必ずしもソウとは思えません。
決して「自立」の問題ではないのです。

人という文字に戻れば、こうもいえます。
右の棒の支えがあればこそ、左の棒はしっかりと伸びられた。
左の棒の押さえがあればこそ、右の棒はしっかりと大地に根づくことができた。
つまり「人」とは「相互支援の形」なのです。

節子と私は相互支援の夫婦でした。
相互支援の関係になれた節子と出会えたことを、とても幸せに思っています。
節子がいなくなったいまも、生を続けなければいけないのはけっこう辛いことですが。

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