■節子への挽歌751:世界の広さ
昨日、挽歌を書いていて、思い出したことがあります。
ある女性の方が、「男の人は会社を辞めると意外と友人が少ないから」と言いました。
また、別の機会ですが、企業の経営幹部のみなさんと話していて、女性と男性の違いが話題になりました。
全員男性でしたが、「女性のほうが、世界が広い」というのです。
反対ではないのか、と異論を唱えましたが、だれも賛成しませんでした。
男性中心に動いている工業社会では、男性の方が行動範囲も人との接点の広がりも大きい。
したがって、男性の生活世界のほうが広く、視野も広い。
これがしばらく前までの常識だったような気がします。
いつから変わってしまったのでしょうか。
男性自らが、自分たちの世界の狭さを認め始めたのです。
これは私には大きな発見でした。
私もかなり時代から取り残されてしまってきたのかもしれません。
私は節子よりも世界は広く友人知人も多いと思っていました。
なにしろ年賀状は節子の10倍は届いていましたし、声をかければ集まってくれる友人も世代を超えて多かったからです。
節子でさえ、私の交流の範囲の広さには感心していました。
ところが、節子がいなくなってから、節子のほうが友人が多いことに気がついたのです。
年賀状が多ければ友人が多いわけではありません。
葬儀に来てくれる人が多ければ、友人が多いわけでもないでしょう。
私の葬儀にはたくさんの人が来てくれるかもしれませんが、3回忌に来る人はいないでしょう。
節子はたくさんの友人たちに囲まれていたことがよくわかります。
それはおそらく「世界の広さ」にもつながっています。
私は節子よりも「知識」や「情報」はたくさん持っていました。
しかしそうしたことは、世界の広さにつながっているでしょうか。
中途半端な知識があると、人はついつい「知ったかぶり」をします。
私は、まさにその典型で、家族からは評判がとても悪いのです。
「知識」や「情報」があると、本当の現場の世界との付き合いを阻害することもあります。
知っていると思っているが故に、現実が見えなくなってしまうのです。
私は時々、節子からそれとなく注意されました。
情報は現実を見えやすくもしますが、見えにくくもするのです。
知識や情報で世界をみるのではなく、自らの心身で世界を感ずる。
節子がいなくなってしまった今、そのことに心がけているのですが、話し合う節子の不在はやはり私の世界を狭くしてきているような気がします。
困ったものです。
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