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2009/09/09

■公共的理性パースペクティブに基づく熟議の価値

民主党と社民党、国民新党の連立政権に向けての協議が続いています。
なかなか合意に到達しないことを否定的に報道するマスコミや解説者が多いですが、私はとてもいいことだと思っています。

民主主義の捉え方はいろいろありますが、「決定」に重点を置くか、「討議」に重点を置くかで全く違った民主制度が組み立てられます。
私は、合意形成とか決定にはあまり価値を置きませんので(それらは常に変化しうることが大切だと思っていますので)、当然、後者の考えです。

アマルティア・センはデモクラシーには2つあるといいます。
「公共的投票パースペクティブ」と「公共的理性パースペクティブ」です。
前者は、選挙の実施と多数決による統治・支配としてのデモクラシーであり、後者は、多様な価値観を持つ個人による相互的な公共プロセスと捉えます。
後者を言い換えれば、開かれた討議が公共的判断を育て、決定に向かうということです。
その理想は「無為にして治まる」古代中国の舜の政治です。
これに関しては、佐々木毅さんの「政治の精神」(岩波新書)で語られている「政治的統合」論がとても示唆に富んでいます。
いまの日本の政治状況を見る基準を与えてくれます。
いまの政治状況に関心をお持ちの方にはぜひお薦めしたい本です。

熟議民主主義については書いたこともありますが、民主主義の本質は、異質の価値観を自由闊達に語り合い、お互いに自らの考えを問い直しながら、新しい価値観を創りあげていくことではないかと思います。
意見の相違がなければ、議論する意味もありません。
私が、二大政党制度に反対なのは、こうした民主主義観からです。
二大政党は権力闘争のスタイルであって、討議のスタイルではないからです。
二項対立、二元論、対立構造。
こうしたことから自由にならない限り、デモクラシーの価値は活かせないように思います。

民主党と他の2党とは議員数において全く違いますが、だからこそ討議する価値があります。
そこに数の理論を持ち込んだ途端に、公共的投票パースペクティブ的なデモクラシー、つまり「支配としてのデモクラシー」になってしまいます。

これまで勝ち馬の尻を追いかけていた、マスコミや評論家は、相変わらず公共的投票パースペクティブで発想しています。
そこから抜け出ないと未来は見えてこないような気がします。

ちなみに自民党はもう消滅したに等しいと思いますが、まだそこにしがみついている政治家には失望します。
なぜ新たな政党を創りだそうとしないのか。
それもまた公共的投票パースペクティブに乗っ取っているからでしょう。
時代の変わり目に大切なのは、量ではなく質、新しいパラダイムだと思うのですが。
さらに蛇足を追加すれば、民主党も来年には分割されるだろうと思います。

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