■住民とはだれか
八ッ場ダム建設中止に関しては、前原大臣の現地視察にもかかわらす、「住民側が出席しないことになった」と報道されています。
国政に翻弄されてきた住民の怒りはよくわかります。
しかし、ここでちょっと気になるのは、「住民」とはだれなのか、です。
私が「住民参加」に違和感があるのは、だれを選ぶかによって「住民」の実体はどうにでもなるからです。
概念としての住民参加はありますが、現実としての住民参加は多様な意味を持つものであり、実際にはありえないものだと思っているわけです。
ところで、今回の八ッ場ダム問題での「住民」とは誰なのでしょうか、
テレビでは、ともかく住民は建設中止に反対しているといいますが、本当でしょうか。
そもそも「反対」の内容は何なのでしょうか。
そうしたことに全く触れられることなく、テレビは建設中止を決めた政権を批判し続ける影像を流しています。
数年前の諫早湾の事件を思い出します。
この問題に関わっていた友人から聞いた話ですが、地元の漁民の多くは反対だったにも関わらず、公式の場での反対集会にはわずか3人しか参加しなかったそうです。
せまい地域共同体社会では、大きな流れに従っていかないと暮らしてはいけないのでしょうか。
自治体の首長や建設推進組織の人の背景に、本当に生活者としての住民がいるのか、とても疑問があります。
大切なのは、ダムを造るとか止めるとかいう話ではなく、生活をどうするかという話のはずです。
ダム建設中止を前提としている限り話し合わないというのは考えてみればおかしな話です。
問題設定が間違っているのです。
それに民主党政権は、ダム建設中止をマニフェストに掲げて政権を得たわけです。
テレビで憤りを語っている現場「住民代表者」たちはそうしたことが全くわかっていないのです。
そうしたことが、おそらくこれまでの八ッ場ダム建設にまつわる歴史の根底にあるような気がします。
そうした社会構造をこそ変革していかねばいけません。
八ッ場ダム周辺の住民たちを批判しているのではありません。
それは決して、彼らだけの話ではないからです。
私たちの周りにも、同じような問題があるのではないか。
そんな気がします。
問題の設定を間違えると、すべてが無駄になるような気がします。
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コメント
アメリカの陪審員でも、白人と有色人の比率、土地柄などで判決が左右される問題が指摘されていますね。
日本でも地域ボス的存在の大きさは、地方に行くほど深刻でしょうね。
投稿: cova | 2009/10/09 05:37