■節子への挽歌768:ストイックに見える生きる
昨日はお昼近くからとてもいい天気になりました。
台風一過の中で、きっと富士山が素晴らしかったのではないかと思います。
湯河原にいたのですが、その秋晴のなかを東京に戻りました。
東京での約束は台風のために延期になっていたので、バスに乗れば1時間で富士山の絶景を見られたはずです。
そこまで行かなくとも、熱海のMOA美術館でもきっと素晴らしい景観を見られたでしょう。
そんな思いも頭をよぎりましたが、なんの迷いもなく、新幹線に乗って、まだ台風でダイヤが乱れている東京に戻りました。
帰路、なぜこうなってしまったのだろうかと思いました。
節子がいなくなったいま、「楽しさ」を味わうことへの拒否反応がどこかにあるのです。
ストイックになろうというつもりは皆無なのですが、正直、どんな時にも楽しめないのです。
もし私と節子の立場が反対だったらどうでしょう。
私は、節子が楽しんだり喜んだりしてくれることを心から望むはずです。
愛する人が喜んでいる姿は、思っただけでもうれしいものです。
おそらく節子もそうでしょう。
それはわかっているのですが、どうしても楽しむ気にはなれません。
おそらくそれは楽しめないからなのですが。
たとえば昨日、芦ノ湖まで行って富士山を見たとします。
感動するでしょうか。
間違いなくしないでしょう。
富士山の絶景が目の前にある、しかし感動できない自分に気づく。
その寂しさは、恐ろしいほどなのです。
みんなが楽しんでいる集まりで、時々、そうした落し穴に落ち込んでしまったときの惨めさは体験しないとわかってはもらえないでしょう。
愛する人と別れてしまったら、もう2度と心の底からのわらいは生まれないのでしょうか。
そんなはずはありません。
しかしなだしばらくは、節子の期待に反して、楽しみとは無縁の生活が続きそうです。
昨日に、あれほどの秋晴にさえ、私の心は揺れませんでしたので。
さていつになったら、この状況から抜け出せるでしょうか。
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