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2009/10/22

■節子への挽歌781:「生きている関係性」が止まってしまった

長門さんの願いにもかかわらず南田洋子さんは旅立ちました。

昨日の続きです。
無くなったのは「何か」。
洋子さんの魂でも生命でもない、私はそんな気がします。
みんなの心の中に、そして長門さんの心身に、洋子さんの生命は今なお生きているはずです。
決して風になどなっていない、私はそう思います。

では「何が」無くなったのか。
「関係」です。
長門さんと洋子さんの、これまでの関係が無くなってしまった。

と書いてきて、ちょっと違うなという気がしてきました。
昨日は何か新しい気づきのような気がしたのですが、こうやって書いてみると違いますね。
私と節子との関係はなくなっていませんね。
私は今なお節子を愛しています。

まだうまく書けませんが、もう少し書いてみます。
書いているうちにまた見えてくるかもしれません。
書きながら考えるのが、この挽歌のスタイルなのです。

自分を支えていた人がいなくなる。
見ることも触ることも話すこともできない。
それは信じられないことなのですが、現実はそうなのです。

関係とは何でしょうか。
静止した関係であれば、たとえ伴侶がいなくなっても維持できるかもしれません。
しかし、関係とは常に変化するものです。
そうか、無くなったのは「生きている関係性」なのですね、きっと。
見たり触ったり話したりすることによって、絶えず変化する関係性。
その関係性の変化が、生きていることの喜怒哀楽を生み出してくれるのです。
それこそが生きている証。
それが無くなってしまったのです。

節子との関係が止まってしまった。
だからこそ、私自身が動けなくなった、
動けなくなれば、世界との関係が逆に大きく変わりだす。
自分では一生懸命動いているつもりですが、なんだか動いている実感が得られない理由がわかったような気がしました。

「生きている関係性」が止まってしまった。
それがもしかしたら、変化なのかもしれません。
もう少し考えてみたい気分ですが。

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妻への挽歌04」カテゴリの記事

コメント

南田洋子さんの訃報を私も見ました。
少ししつこいくらいの長門裕之さんの愛情表現を今までも見ていたような
気がしますが、昨夜の長門さんは残された者の妙な落ち着きとわけの分からなさが
見えたような気がします。

自分を振り返っても、当初はわけが分からないまま、妙に落ち着いていたようです。
あの時にほんとにわ~~~っとすぐに泣ける方が、起こってることを冷静に理解して
いるのだろうと思います。冷静に見える人が実は全く冷静ではなく、泣き崩れている
人のほうが実は冷静なんですね。。。

長門さんが「洋子は永遠で・・・私の記憶の中で永遠で・・・」とおっしゃって
ましたね。でも、それは長門さんがいらっしゃるかぎりの永遠ということですよね。
ということは人間の生きていた証なんていつまでのものなんでしょうか。。。。
せいぜい子供、孫に伝わって・・・そこまでなのでしょうね。なんだか虚しくなって
しまいます。

私も、先日夕焼けをぼ~~っと見ながら思いました。よくあちらの世界は空の向こうって
いうけれど、それは違うなあ。主人はここにいて、あの夕焼けを私と見ている。私と
目線は一緒。風でもないし、空の向こうでもない・・・と何だか確信していました。

私は毎日主人の写真に向かって朝夕話しています。佐藤様がおっしゃるように関係は
続いています。主人の力も感じます。   でも、先日主人の同期の仲間からお誘いを
受けて食事会に行ってつくづくと感じたのが、皆さんがとてもとてもとても元気で
若々しく見えたのです。同年齢ですし、主人がいた頃の皆さんをそう感じたことは
なかったので大変意外でした。なぜなのだろうと考えて分かったのですが、私は毎日
静止画像に向かっている。でもそこにいらっしゃる皆さんは静止していない、当たり前
ですが動いてらっしゃる。。それがきっと私にはとても大きな発見だったようです。
血が通って、動いている・・・・すごいことなんですね。

私もそのうち静かに止まるのでしょう。

投稿: masa | 2009/10/22 18:50

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