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2009/10/29

■モンスターの悲劇

「モンスターペアレンツ」が学校を徘徊しているという話はかなり前から聞いています。
理不尽な要求を学校に突きつける父兄のことを「モンスターペアレンツ」と呼ぶようです。
しかし、理不尽な要求を突きつけるのは、何も学校の父兄だけではないようです。

福祉の世界でも、そうした「モンスター」に悩まされている行政は少なくないようです。
企業のお客様にも「クレーマー」と呼ばれるモンスターがいるようです。

先日、介護保険関係の研究調査プロジェクトの集まりがありました。
介護保険の自己作成をもっと広げたいという思いをもった人たちの研究会なのですが、そこで介護保険の世界でもモンスターといわれる人たちに窓口が振り回されて、それが健全なケアプラン自己作成者の広がりを妨げているのではないかというような議論がありました。

私自身は、そもそもモンスターなどという発想には大きな違和感があるのですが、福祉の世界も少しだけ知っている立場からいえば、モンスター議論に関しても、さもありなんと納得してしまっていました。

私は、住民主役のまちづくりにささやかながら関わっています。
一昨日も、あるまちで住民たちと行政との話し合いの場に同席する機会がありました。
そこでいろいろと話を聴いていて、そうした「まちづくり」の場にも、モンスター発想が行政にあることに気づきました。
さらに気づいたのは、モンスターを生んでいるのは行政だということです。

ゴジラはモンスターでしょうか。
もしそうであれば、ゴジラを生み出した核爆弾をもった世界はモンスターの生みの親ということになります。
モンスターを生み出すスーパーモンスター。
大企業や行政こそ、実はモンスターの源なのです。

モンスターが悪者扱いされる風潮が広まっていますが、モンスターを生み出す状況こそが問題なのだとやっと気づきました。

かつてはモンスターだったゴジラは、次第に世界の救い手に変化してきました。
これは実に象徴的な話です。
モンスターは何も好き好んでモンスターになったのではありません。
そういう視点でさまざまなことを見ていくと、もしかしたらモンスターはモンスターを非難している私たちなのかもしれません。

自らがモンスターなのに、誰かをモンスターと呼んで、自らは健全だと思い込んでいるのは、喜劇ではなく悲劇です。
私はこれからはもう2度とモンスターなどという言葉は使わないようにしようと思います。
人をモンスターなどと称することの傲慢さは、持ちたくないものです。
あやうくその傲慢さを身につけるところでした。
まさにモンスターを生み出す世界に私たちは生きているのです。

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