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2009/10/14

■節夫への挽歌773:メガロプシュキア

節子
昨日、余計なことを書いてしまったので、今日は少し弁解です。
それも私好みの、そして節子が好きでない、小賢しい議論です。
よほど時間を持て余している人だけお読みください。

修は口数が多すぎて、言わなくてもいいことをいうのでみんなから誤解されるよと節子はいつも言っていました。
まあそれは、節子が最初は私を誤解していたということの告白であるわけですが、誤解した人と結婚し、結局、その人に共感したわけですから、節子が誤解していたのは、私ではなく自分だったことになります。
まあ、こういう私の詭弁的な論法が、節子は好きではなかったのですが、

さて昨日の弁解的補足です。
日本語の「矜持」は、アリストテレスのメガロプシュキア(魂の大いなること、高大なること)の訳語だそうです。
いずれも難しい言葉で、私は使ったことがありませんが、岩波新書の「政治の精神」を読んでいたら、そこに出てきました。
著者の佐々木さんはアリストテレスのメガロプシュキアについて、こう紹介しています。

矜持ある人とは、「自分のこと」から可能な限り距離をおいて、「大きなこと」への強烈なコミットメントによって(危険を恐れず、生命を惜しむことなく)大きな名誉という最高の外的な善を指針として生きる人である。
つまり、ここでは「自分のこと」と「大きなこと」とは対照的であるとされているわけです。
もしそうならば、私のように「自分のこと」から考えて行動している人は肩身が狭い気がします。
しかし、私は、「自分のこと」から考え出していかなければ、「大きなこと」にはつながらないと思っているのです。
言い換えれば、「自分のこと」から大きな距離があるような「大きなこと」は、私には存在しないのです。
存在しないことを語ることは、私には理解できないことなのです。
だからそうした人の言説は信じません。
アリストテレスであろうと、誰であろうと、口舌の徒としか私には感じないのです。
こうした頑固さもまた、節子は嫌いでした。

それに、私自身、自分に宿っている魂の大きさには、畏敬の念を持っています。
魂は私のものであって、私のものではないとも思っています。
魂を私することなど、とてもできません。
私の魂は節子の魂とつながっているだけではありません。
すべての生命に宿している魂につながっている。
それが私の発想の原点です。
ですから、私には「自分のこと」と「大きなこと」は対照的な存在ではなく、全く次元の違うことなのです。

なにやら挽歌には相応しくない内容ですね。
それに弁解にも全くなっていませんね。
むしろ私の独りよがりの偏狭さのダメ押しをしてしまったようです。
節子が言っていたように、口は禍の元。
でもまあ節子も、私と同じく口数が多い人でした。
その節子の声を耳から聞くことができないのが、やはり辛いですね。
幻聴でもいいのですが、もう一度、節子の声を聞きたいです。

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