■節子への挽歌763:「それをやったらどうなるの」
節子
この2週間ほど、もしかしたら忙しさに落ち込んでしまっています。
「時間破産」は以前よく起こしていました。
しかし最近の「忙しさ」は、それとちょっと違うのです。
時間は決してないわけではないのです。
何が問題なのだろうかと昨夜考えてみたのですが、どうも問題を先延ばししているために、問題が自己増殖し、余裕がなくなり、思考する心がなくなっているのかもしれません。
私は子どもの頃、「探偵小説作家」になりたかった時期があります。
まだ推理小説などという言葉が生まれる前です。
子どもながらに「完全犯罪」を考えたりしていました。
幸いに思いつかなかったので、犯罪に手を染めることはありませんでしたが、問題を創ることと解くことが大好きなのです。
私は名刺に「コンセプトデザイナー」と書いているのですが、それは「問題をつくる」ことをミッションにするという意思表示なのです。
言い換えれば「謎解き屋」なのです。
めったにその意味を訊かれることはないのですが。
ですから、問題を立てて、それを解くという「思考」が大好きなのです。
ちなみに、問題をつくることと問題を解くことは、私には同じことなのです。
ところが最近、それが億劫になってきたのです。
なぜでしょうか。
もしかしたら、謎づくりと謎解きについて、話し合う相手がいないからかもしれません。
ホームズでいえば、ワトソンがいないのです。
謎づくりも謎解きも、私は話しながら進めるタイプなのです。
そういえば、節子との会話の中で、お互いに「それをやってどうなるの」というやりとりがよくあったように思います。
「それをやったらどうなるの」
「それをやることにどんな意味があるの」
そういわれると、問題の原点に返れるのです。
その問いかけがないのが最近のスランプの原因かもしれません。
的確な問題設定をすれば答は自然と見えてきますが、あいまいな問題設定をしてしまうと、ただただ疲れるだけになりかねません。
少し問題整理をしなければいけないのかもしれません。
発想次元の違う節子との雑談が、とてもしたいです。
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