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2009/10/05

■国民の自由な声を抑圧する国家とは何なのか

読まれた方もあるかもしれませんが、昨日、このブログに寄せられたコメントにこんな文章が書かれていました。

>本当のことを言うと、このコメントはウェブ上に公開されてしまいますので、
>ちょっと怖い気がしたのですが、敢えて小さな声として発信します。

みなさんはどう思われるでしょうか。
考え過ぎではないかと思う人もいるかもしれません。
でも、そう思っている人も少なくないでしょう。
実際にこのブログを読んでくださっている人から、私信としてそういう思いを伝えられたこともありますし、ネットでの発信はすべてチェックされているから注意した方がいいといわれたこともあります。

以前書きましたが、私が友人に送ったメールを読んだ警察の人から電話があった時にはさすがに私もゾッとしましたが、後でそれは友人の遺品の中のパソコンから読み取られたものであることを知って少し安心しました。
しかし、実際にはネット上でのやりとりは、おそらく監視されているのでしょうから、その気になれば、権力をもつ人はいかようにも利用できることは否定できません。

一時期、共謀罪が話題になっていましたが、最近はどうなったのでしょうか。
今の情報環境で共謀罪が成り立つようになれば、映画「マイノリティ・レポート」の世界が現出しかねないと危惧していましたが、実は既にもうそういう社会は実現しているのかもしれません。
私たちはいまや見事に自己規律化されてきているのです。
オーウェルの「1984年」やザミャーチンの「われら」の世界は、すでに現実のものになってきているのです。

しかし、意見を素直にいうことが「怖い」社会は決して健全ではありません。
そうした「会社」が、問題を起こして破綻してしまった実例を、私たちは最近、何社も見てきていますが、「社会」そのものがもしそうなっているのであれば、これは由々しき問題です。
社会が壊れだしているとしかいえません。

そんな社会で、どう生きていけばいいのか、悩ましい話です。

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