■節子への挽歌772:自利利他円満
仏教には「自利利他円満」という言葉があります。
昨日、お墓参りは誰のためかということを書いていて、思い出した言葉です。
自利利他円満。
この言葉にこそ、ブッダの教えの真髄があると、私は思っていますし、それこそが人が気持ちよく生きていく秘訣ではないかと思っています。
「自利(自分のため)」と「利他(人のため、社会のため)」は相反するもの、と考えている人も少なくないでしょうが、きちんと生きていれば、それらが通じていくことにつながります。
そして、それを前提にして行動すれば、必ず両者が通じていることに気づくはずです。
但し、若干の時間差がありますから、見えない人もいるかもしれません。
アダム・スミスの経済論で言われている「見えざる手による調和」の考えも、このことを根底にしていますし、わが国の商人道の真髄とも言われる「三方よしの経営」も、まさにこの考えに基づいています。
それは決して道徳の世界の話ではなく、経済や政治を含めた処世の理念でもあるのです。
ところで、私は発想する順番が大事だと思っています。
自利(自分のため)と利他(人のため、社会のため)との順番を間違うとおかしなことになりかねません。
この言葉の表現通り、最初にあるのは「自利」でなければいけません。
安直に「社会のため」などと自分でいう人は信頼できません。
社会貢献などという人や会社はもっと信頼できません。
私の信条と生き方は、利他の前に必ず自利があります。
自利は必ず利他につながっていることを確信しているからです。
もし利他につながっていない自利であれば、円満にはつながらず、結局、自利を壊してしまいます。
利他につながる自利を生きる。
これが私の長年の信条です。
このことを一番理解し、共感してくれていたのは節子です。
自利と利他の二元論で教え込まれてきた現代人には、言葉ではなかなか伝えにくいのですが、私のそうした生き方の結果を節子は心身で共有していたからこそ、同じ生き方を意識的にしてくれていたのです。
私にとって、節子はそういう意味での、信条における伴侶でもあったのです。
昨日の墓参りの話に戻れば、「自分のため」の墓参りには節子は喜んでくれるでしょう。
しかし、「節子のため」の墓参りであれば、もう来なくていいよといわれそうです。
事実、行かないことが「節子のため」になるのです。
節子という共感者がいなくなって、私の信条に揺らぎが出てきているのかもしれません。
胸を張って自利を追求する生き方を思い出さねばいけません。
最近少し姿勢が悪くなってしまっているような気がしてきました。
無理をして行動しているのではないか、だから疲れているのではないか。
自分を見直さなければいけません。
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