■節子への挽歌782:「抜け出るべきか、留まるべきか、それが問題だ」
昨日の続きをまた書きたくなりました。
昨日また考えてしまったからです。
節子がいなくなって、いったい何が変わったのだろうか、と。
そういえば、以前もこんなことを書いた気がしてきましたが、無くなったのは、「これまで育て上げてきた私の世界」だと気づきました。
その世界は、節子がいればこそ、意味を持っていた世界だったのです。
その世界が瓦解してしまった。
だからこそ自分の居場所がわからなくなった、どう行動していいかわからなくなった。
そんな気がします。
親子の場合は、おそらく子どもはある年齢以降は親の世界から離脱し新しい自分の世界を創ろうとしだします。
親との別れは辛いでしょうし、大きな影響を与えるでしょうが、むしろ新しい世界を生み出す力を与えてくれるかもしれません。
しかし夫婦の場合は、そうやって親から独立して築きあげてきた、まさにその世界の根底が崩れてしまうのです。
これまでのことはいったい何だったのだろうか。
これからどうしたらいいのか。
そこで多くの人はおろおろしてしまう。
これまで創りあげてきた世界の終焉。
しかし、次の世界を創る気力はない。
としたら、どうやって生きていけばいいのか。
もちろん生き続けることはできるでしょうが、生命の躍動感を感ずることは難しい。
なにしろ「創る」喜びをもてないのですから。
もしかしたら、今の私はそんな状況にいるのかもしれません。
ハムレットではないですが、
「抜け出るべきか、留まるべきか、それが問題だ」
です。
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