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2009/10/19

■節子への挽歌778:「節子に自慢したい」からがんばれた

昨日、挽歌を書けなかったので、今日はもう一つ書くことにしました。
節子がいなくなってからの日数と挽歌のナンバーがずれることを避けたいからです。

しかし今日もまた時間に追われて、節子のことをゆっくりと思い出す間がありませんでした。
今日はほぼ終日、パソコンの前で作業をしていました。
がんばっているのに、効率はあまりあがっていないのです。

頭の中が乾いてきているような気がして、あくびばかり出る。
以前もこういう状況になったことが時々、あります。
そういう時は、節子を誘って筑波山なり、どこかの公園に出かけました。
そこで心身を新しくできたのですが、今ではもうそういうことができません。
さてさてどうしたものか。
こういう時こそ、節子のありがたさがよくわかります。
要するに、もう無理はできないということなのかもしれません。

それにしても、この1か月、何やら急にいろいろな話が舞い込んできます。
実際は、私の感受性の弱まりの中で、今までは気づかなかっただけかもしれませんが。

人が何かに取り組む時には、だれかに喜んでもらえるということが大きなモチベーションになります。
そういう人がいるかどうかが、取り組む活動の内容を決めていきます。
それがない場合には、おそらく「お金」が目標になるのでしょう。
逆に、喜んでもらいたい人の顔がはっきりと見える場合は、「お金」など無縁になります。
私の場合は、少なくともそうでした。
私が何かに取り組む時の基準は、「節子が感心してくれること、喜んでくれること」でした。

しかし、いま考えると、「節子が感心してくれること、喜んでくれること」を、私が正しく理解していたかどうかは不安です。
私には、どこかに「節子に自慢したい、ほめられたい」という思いがあり、結局は私本意の独りよがりだったのかもしれません。
節子にほめられることが、私にとっては最高の名誉だったのです。
こんなことを言うと、笑われそうですが、それが正直なところです。

その、私をほめてくれる人はもういません。
ですからどこかで何をやっても、醒めている自分がいるのです。
それが疲れる原因なのかもしれません。

夫婦とは、お互いに相手をおだてながらがんばらせて、その成果を一緒に享受する仕組みなのかもしれません。
伴侶がいなくなると、頑張りが出てきません。
でも時々、がんばってしまうのは、なぜでしょうか。
節子がまだどこかにいるからでしょうか。

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