■節子への挽歌787:愛する人を失った人は、すべての存在にやさしくなれる
節子
昨日は青森県の三沢に泊まったのですが、朝早く目が覚めて、ホテルの部屋から外を見たら、朝日が出てきたところでした。
三沢には高層の建物があまりないので、日の出がよく見えるのです。
帰路の新幹線の中からはずっと夕陽が見えていました。
東北新幹線はしっかりと南北に直線ではしっているので、夕陽がずっと見えているのです。
日の出と夕陽。
節子と何度見たことでしょう。
そのせいか、太陽を見ているとなぜか節子を思い出します。
いえ、太陽だけではありません。
今日の三沢の空はとてもきれいな青さでした。
その空を見ていても、節子が見えてきます。
何を見ても節子を思いだす。
いまや節子はいたるところにあまねく存在しているのです。
だからこそ、全てのものがいとおしくなるのです。
愛する人を失った人は、ある時期を越えると、すべての存在にやさしくなれるような気がします。
すべての生命、すべての物に、愛する人の世界を感ずるのです。
節子を感じてしまうと、どんな物にも、いとおしさを感じます。
だから、だれにも、どんなものにも、やさしくなれるような気がします。
しかし、自分にだけはなかなかやさしくはなれません。
新幹線の中で、夕陽を見ながら、いろいろなことを考えていたのですが、帰宅してパソコンの前に座ったら、その時、書こうと思ったことが思い出せません。
思い出せたのは、節子のおかげで、世界がとてもいとおしく感じられるようになったということです。
日の出と夕陽のことを書くはずだったのに、あんまりつながらない話になりました。
しかし今回の三沢行きは、とても疲れました。
前のプロジェクトの担当者にも会いましたが、彼女から元気になられてよかったですね、といわれた時に、またいろいろと思い出してしまいました。
三沢と節子とのつながりは、何も無いのですが、私にはきっと切り離せない存在なのです。
たぶん、この疲れはそのせいに違いありません。
この疲労感には覚えがありますので。
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