■節子への挽歌776:なんでこんな生き方になってしまったのだろうか
節子
私たちの生き方は、やはり時代をかなり先んじていたことをこの頃感じます。
最近、またいろいろな人が湯島に集まりだしました。
たとえば、KSさん。
これまでは企業関係の仕事が忙しかったけれど、最近は社会活動を始めたといって、取り組んでいる構想を話してくれました。
そしてこういうのです。
これはビジネスではなく、収益事業ではないのです、と。
KSさんは、これまでもとても社会的な活動をしていると考えていた私は、その言葉がとても不思議でした。
KSさんでさえ、これまでやっていた活動は収入のためだったのだろうかと。
そんなはずはありません。
KSさんは、私欲などほとんど感じさせない人なのです。
納得できる仕事をしていれば、収益事業であろうと社会事業であろうと区別などありません。
収益事業と社会事業は所詮は同じことであり、活動の報酬は金銭だけではないのです。
そう思うと人生はとても生きやすくなります。
おそらくKSさんは、収益活動と社会活動に違いがないことに間もなく気づくでしょう。
昨日、メールを紹介させてもらったKYさんはどうでしょうか。
久しぶりに企業の事業戦略論に関して議論したのですが、帰り際に彼が言いました。
佐藤さんはなんで「社会」に入り込んでしまっているのかな、と。
そういえば、私も彼と同じ企業コンサルティングの世界にいたのです。
それがなぜ今は、自殺問題だとか子育てだとかに関わってばかりいるのでしょうか。
修は忙しいのにお金は一向に入ってこないのね、と節子が笑いながら言っていたのを思い出します。
確かに、金銭は出る一方ですが、それ以上に入ってくるものは多かったのです。
もちろん金銭も入ってきます。
そういえば、昨日、この1年、会ったこともない友人がやってきて、会社の利益が上がったのでお礼だといってお金を置いていってくれました。
いったい何のお礼なのでしょうか、お世話した記憶はこの数年、ないのですが。
しかしまあ、くれるのだろうからもらってやらねばいけません。
金額の大小は問題ではありません。
私の生活はこういうみなさんのお布施で成り立っているのかもしれません。
布施を受けるのも、十分に「仕事」といっていいでしょう。
さてKYさんの言葉です。
なんで「社会」に入り込んでしまっているのか。
目線や心が違うのかな、と彼は言います。
そうではなく、ちょっとだけ先を生きているのだと言いたい気持ちです。
みんなもうじき、気づくでしょう。
それにしても、何でこんな生き方を過ごせるようになったのか。
言うまでもなく、良き伴侶のおかげです。
節子は私の生き方を、理解する前に受け容れ、共感し、一緒に生きてくれました。
節子がいなければ、私の生き方は違ったものになっていたでしょう。
もしかしたら、そのほうが良かったかもしれませんね。
節子に会ったのが「不幸のはじまり」かもしれません。
しかし、まあ「不幸」と「幸せ」は同じもののような気もします。
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