■節子への挽歌812:「山川草木悉皆節子」
「山川草木悉皆仏性」という言葉があります。
草木のみならず、山や川にも「魂」(霊性)があるというわけです。
これは日本独特の発想です。
生命体でない山にまで生命があるのです。
学生の頃読んで目からうろこがおちた小説があります。
ソ連のSF作家のアンソロジー短編集のなかの一編でした。
岩が主体的に動いている話です。
生命体の時間軸では認識できないほどの時間をかけて動いているという話だったと思います。
考えてみれば、もしかしたら地球もそうかもしれない。
私の常識はそこで吹っ飛んでしまったわけです。
その数十年後になって、地球は生きているというガイア仮説が出てきましたが、もうそのずっと前に岩が生きているという洗礼を受けていたので、私には退屈な仮説でしかありませんでした。
そのアンソロジーには、もう一つ今でも覚えている作品がありました。
地中を飛ぶ鳥の話です。
これも私には驚きでした。
鳥が空気中しか飛べないなどという馬鹿げた知識しか教えない学校教育に従順に染まっていた自分を反省させられました。
以来、近代科学の知には懐疑的なのです。
小さな科学の虜にはなりたくないからです。
理屈っぽいことを長々と書いてしまいました。
しかし不思議なことに、こういう話には節子はとても興味を持ちました。
私が得意になって話すので合わせてくれたのかもしれませんが、どこか直感的に受け容れてくれるところがありました。
節子はまだ、キツネにだまされる人がいた時代に育ったからかもしれません。
節子のお母さんは、まさにその世界に生きた人でした。
信心深い門徒でした。
節子は近代志向の人でしたが、やはりどこかにそうした育ちの世界を背負っていたのです。
魂や霊の世界は、私には論理の世界でした。
節子とは正反対の方向から入っていったのです。
節子はその世界を感じ、私はその世界を理解したかったのです。
ですからいうまでもありませんが、私のはにせものでした。
私には彼岸が見えなかったのです。
私が彼岸を実感しだしたのは、節子を見送ってからです。
左脳は右脳にはとうてい勝てません。
節子はいま、どこにいるのでしょうか。
「山川草木悉皆節子」
もしかしたら、あらゆるところに節子はいるのかもしれません。
私を見守るために。
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