■節子への挽歌819:「お母さんがいたらなあ」
節子
突然ですが、ジュンが結婚することになりました。
ジュンの後悔は、節子に孫の顔を見せられなかったことです。
節子を見送った後、ジュンはそれをとてもとても悔やんでいました。
私たちの娘たちは2人とも、結婚などとは無縁に過ごしていました。
それが私たちの最大の悩みだったのですが、節子が病気になった後、私たちの関心は娘にまでいかずに、私たちのことだけで精一杯になってしまったのです。
それをいいことに、娘たちは結婚もせずにわが家に居座ってしまっていたのです。
私たちは親としての責任を果たさなかったのです。
言い訳にもなりませんが、娘たちは私たちに似て、とてもわがままに自分の人生を過ごしていました。
まさに親は子どもの鏡です。
私たちが自分の親に対してとっていたのと同じ姿勢の娘たちに、私たちは何もいえなかったのです。
親としては失格でした。
節子を見送った後、それぞれが立ち直りだしてから、ジュンが結婚すると宣言しました。
その取り組み方が、実にまたジュンらしいので、私でさえいささかたじろぎましたが、ジュンは宣言を現実のものにしつつあります。
昔の私自身をみているような気がします。
しかも私たちと同じく、いわゆる結婚式はしないというのです。
時期までもそっくりです。
私たちは、親の強い要望で、結局、結婚式をしましたが、節子がいない今、どうしても結婚式をやれとは私には言えませんでした。
ジュンを見ていると、私たちもまたそれぞれの両親にはこういう風に思われていたのだろうなと思い当たります。
申し訳ないことをしてしまったという思いもあります。
自分がやっていることが、結局は自分にまわってくるのです。
ところで、ジュンは時々、「お母さんがいたら相談に乗ってもらえるのになあ」と言うのです。
私ではだめなのかと言うと、だめなのだそうです。
ジュンは、私への反発がいまなお強いのです。
これも私を見て育ったからですので、自業自得です。
しかし、ジュンの相談に対する節子の答は、私もジュンも知っているのです。
わが家では、誰が何を考え、どう答えるかは、ほぼみんな知っているのです。
にもかかわらず、ジュンは「お母さんがいたらなあ」と言います。
その気持ちが痛いほどよくわかります。
実は私もそう思っているのです。
「節子がいたらなあ」
時々、節子の位牌に向かってこう言っています。
「節子はいいよねえ。何の悩みもなく、彼岸で花の手入れをしていればいいのだから。節子がいないので大変だよ。親らしくしないといけないのだから」
私はどうも「親らしくする」ことができないのです。
最近つくづくそう思います。
節子には良い夫だったかもしれませんが、娘たちには良い親ではないのです。
まあ、それは節子も同じなのですが。
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コメント
お嬢様ご結婚なんですね。おめでとうございます。
うちも、夏に息子が結婚しました。
親としてのひとつの責任を果たしたという気持ちと、同じ目線で
祝ってやるはずの人がいない寂しさで大変大変複雑な気持ちでした。
主人が気にかけていたので、ほんとにつれてきてくれたのかもしれない
と思っています。
親でいた私達が・・・どうして私ひとりなのか・・・今もまだ
納得していない自分がいます。
投稿: masa | 2009/12/01 00:38