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2009/11/09

■節子への挽歌799:脱余生考

節子
また新しい週の始まりです。
今日もまた無事に過ごせた、と日々、感謝していた節子と違って、最近の私はかなり惰性的に生きています。
節子に叱られそうですが、日々の感謝の気持ちが薄れていることは間違いありません。
人間はほんとうに現金なもので、何ごともないとそれが当然のことだと思いがちです。

しかし、もしかしたら、私が惰性的なのは、そのためではないのかもしれません。
最近、改めて「余生」という言葉が気になりだしています。
余生。「余った生」。
余った生であればこそ、生きる真剣みが出てこないのかもしれません。

節子のいない今は「余生」だとして、では節子がいた時は、「目的を持った生」だったのか。
その「目的を持った生」が、節子を見送ることで終わってしまった。
そう考えていくと、結論はこうなります。
「私の生きる目的は節子を見送ることだった」。
心が萎えてしまうような結論ですが、どこかに論理的な間違いがあるでしょうか。

では節子の生は何だったのか。
それは、「私に見送らせること」だったということになります。
こう考えると、夫婦になるということは「相互に生きる目的を与えること」ということです。そして、必ず一方に「余生」が生じるわけです。

伴侶を失った後、仏門に入り、伴侶の供養に生涯を捧げる生き方もあります。
それは「余生」なのでしょうか。
「愛する人」を供養するというはっきりした目的がありますから、これは「余生」とは言い難いですね。
「余生」などではなく、最後まで誠実に、真実の生を送ることもできるわけです。
戦国武将の妻たちにとっては、それこそが一番の真実の生だったかもしれません。

供養は出家しなければできないわけではありません。
そうであれば、今のままでも、節子のために生きることが可能です。
「余生」などと思わずに、惰性に流されるのではなく、もっと意味ある生を生きなければいけません。
そんな気がしてきました。

これからは毎朝、元気に目覚められてことを感謝していこうと思います。
なにやら節子の考えそうな生き方になってきてしまいました。
もしかしたら、節子が憑依しているのかもしれません。

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妻への挽歌04」カテゴリの記事

コメント

私も仏門に入る、出家をするという選択肢があるんだなあと思ったことがあります。
主人のことを偲んで、主人の霊が安らかであることを祈る日々・・・
それで十分だと思いました。今もほとんどそれに近い毎日です。

でも、先日主人の写真に向かって話している内容が「主人と共有していた時間とは違う
新しい時間」だということに気がつき、そうなのか・・何も出来ないって思ってたけど
「何かしら」が動いているんだなあと思いました。

投稿: masa | 2009/11/09 15:33

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