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2009/11/24

■節子への挽歌814:不生不滅

生と死について少し書いてきましたが、最後に「不生不滅」ということについて、今の気持ちを書いておきたいと思います。

毎朝、節子に般若心経をあげています。
そこに出てくるのが

是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
です。
中村元さんの訳によれば、
この世において、存在物はすべて、実体のないことを特質としている。生じたと言えないものであり、滅したとも言えないものであり、汚れたとも言えず、汚れを離れたものでもない。減ることもなく、増すこともない。
つまり、すべては「空」だというわけです。

「空の世界」では二元論はなりたちません。
生も死も、垢も浄も、増も減も、ないのです。
「空の世界」からの写像でしかない現世のさまざまな現象の変化は、ほんの一時の幻像なのです。
ではその幻像の本体はどうなっているのか。
それは、今はまだ知る由はありませんが、知る必要もないのです。

不垢不浄や不増不減は現世の論理でもわかりやすいでしょう。
視点を替えれば、垢は浄に、浄は垢になります。
そう考えると、人はとてもやさしく、寛容になります。
有限の世界で考えると、不増不減もゼロサムゲームの中での見方の違いでしかありません。
法頂のような「無所有」な生き方をしている人には不増不減など当然のことでしょう。

しかし、不生不滅は実感的にはなかなか受け容れがたいところがあります。
執着しないでしようと思っても、やはり執着してしまいます。
増減や垢浄とはちがい、生死は非連続ですから、そう簡単には納得できないのです。
もっとも私自身は、最近、なんとなくその意味がわかってきました。
いえ、わかるというよりも、受け容れられるようになったというのが現実なのですが。
毎朝、般若心経をあげているおかげでしょうか。

「生死即涅槃」という言葉を最近知りました。
生死不二ではなく、生死と涅槃もまた不二だというのです。
ここでいう「生死」は、「不生不滅」とは反対の「煩悩に翻弄されている迷い」の意味です。
それが煩悩を超えた涅槃、覚りの世界とは不二、つまり二つであってしかも二つではないというのです。
生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない、というわけです。
これもなんとなく今の私の気持ちです。

生も死も、そんなにこだわることはありません。
しかし、その時々の生を、素直に自然に受け容れることにはこだわっていきたいと思います。節子との日々の関係が、これまで頭でしか理解できずにいた「不二」ということを実感させてくれたからかもしれません。
涅槃とはとてもいえませんが、それなりに平安な日々を過ごせるのは、そのおかげかもしれません。

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