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2009/11/19

■節子への挽歌809:生命的世界の一体性と個体性

人間は個人として生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。
これは、内山節さんの「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本に出てくる一節です。 内山さんは、半分を群馬の上野村で過ごす哲学者ですが、その生活の中からの生命観はとても共感できます。

内山さんは、生命というものを個体性によってとらえるのは近代西欧の発想だと言います。
日本の伝統的な村のなかで生きた人々には、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。
個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないか、と内山さんは言うのです。
私もそんな気がしていましたが、節子を見送った後、それは確信に変わりました。

内山さんはこう書いています。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

木はその一本一本が個体性をもった生命である。だから木の誕生もあるし、木の死もある。しかしその木は、もう一方において、森という全体の生命のなかの木なのである。しかも森の木は、周囲の木を切られて一本にされてしまうと、多くの場合は個体的生命を維持することもむずかしくなるし、たとえ維持できたとしても木のかたちが変わってしまうほどに、大きな苦労を強いられる。
森という全体的な生命世界と一体になっていてこそ、一本一本の木という個体的生命も存在できるのである。この関係は他の虫や動物たちにおいても同じである。森があり、草原があり、川があるからこそ個体の生命も生きていけるように、生命的世界の一体性と個体性は矛盾なく同一化される。

伝統社会においては人間もまた、一面ではこの世界のなかにいた。人間は個人として生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。人間は結び合った生命世界のなかにいる、それと切り離すことのできない個体であった。

節子の後を追いたいという気持ちが、私に出てこなかったのは、生命は自分のものではないという強い確信があったからです。
そして最近、改めて思うのは、「結び合った生命世界のなか」に生きている限り、決して終わることはないということです。
こういう思いを持つと、死への恐怖は、不思議なほどに全くなくなります。

今から思い出すと不思議なのですが、節子を送った翌日、実はそういうことを実感したのです。
告別式での挨拶でも言及しましたが、葬儀に来てくださったみなさんたちの中に、節子を感じたのです。
そのことが、この挽歌を書く気になった理由でもあります。

その意味が、最近、やっと理解できました。
当時はそう感じていただけなのですが。

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