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2009/11/14

■節子への挽歌804:「死は決して不幸な出来事ではない」

節子
北九州市の佐久間さんが「涙は世界で一番小さな海」という本を書きました。
佐久間さんは、節子のことを心配してくれたばかりではなく、節子がいなくなった後の私のことも心配してくれている友人です。
この本に関しては、私のホームページ(CWSコモンズ)のブックのコーナーで紹介させてもらいましたが、その冒頭に、「その海は、もしかしたら世界で一番深い海」かもしれない、と書かせてもらいました。
これは、節子を送った後の、私の実感です。
その海の底は彼岸に届いているからです。

それに関しては別に書きたいと思いますが、今日の話題は、その涙の海の話ではありません。
ホームページにも書いたのですが、その本のなかで佐久間さんは、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言うことがとても気になっていると書いています。
いわれて見ると、私も節子を見送るまでは、全く抵抗なく、そういう言葉を使っていました。

佐久間さんはこう書いています。

わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。
いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。
その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
(中略)
わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。
なぜなら、そう呼んだ瞬間に将来必ず不幸になるからです。
死はけっして不幸な出来事ではありません。
「死はけっして不幸な出来事ではない」。
1年前までであれば、たぶん私は受け容れられなかったでしょう。
しかしいまは素直に心に入ってきます。

「死」が「不幸」という場合、その不幸は「死者の不幸」か、「残されたものの不幸」か、があります。
両者は必ずしも同じではありません。
それに、一方の不幸が他方の幸福という関係もないとは言えません。

節子を見送った当初、節子が不憫でした。
節子の不幸を感じたのです。
しかし次第に、不幸なのは自分ではないかと思うようになりました。
残されたものの惨めさは体験したものでなければわからないでしょう。
でもそのうちに、不幸さという感じはなくなってきました。
さびしさや哀しさはあるのですが、それはどうも「不幸」とは違うのです。
それに、節子や自分を不幸と思えば、ますます気分が沈んでしまいます。
別れてもなお、これほど愛しつづけられる伴侶を持てたことが、不幸のはずはありません。
その幸せが思っていたよりも少しだけ早く断ち切られたにしても、それを不服に思うのはぜいたくだと言うべきでしょう。

さらにいえば、最近、死というものへの不安やおそれが全くなくなっている自分にも気づきだしています。
「死はけっして不幸な出来事ではない」。
佐久間さんの言葉に、さまざまな思いが去来しました。
なぜか今日は涙は出ませんでしたが。

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