■節子への挽歌807:「知っていること」と「わかること」
小学校の同級生たちと久しぶりに会いました。
その一人は、私が節子を見送ったのと同じ頃、娘さんを見送りました。
そのために元気がなくなっていると彼と親しい仲間から聞いていました。
その話を聞いてからずっと気になっていました。
私は彼とはそう親しかったわけではありません。が、気になって一度電話をしてみました。
しかし、なんとなく迷惑そうな雰囲気を感じて、電話を切りました。
その気分もよくわかるような気がしたからです。
昨日、彼と話していて、私が妻を見送ったことに彼は気づいていないことを知りました。
間違いなく知っているはずなのですが、意識されていなかったというべきかもしれません。
かなり話してから、彼がぽつんといいました。
奥さんを亡くしたのか、と。
「知っていること」と「わかること」とは違うのだということを改めて気づかされました。
おそらく私も同じようなことをやっているのでしょう。
節子を見送ってから1年は、何かを「知った」としても、消化できずにいたことがたくさんあるはずです。
いろいろな「失礼」があったかもしれません。
しかし、愛する人を失った衝撃は、心身にそれほどの混乱を引き起こすのです。
知性では全く理解できないでしょうが、私の体験から、それは間違いないことです。
私と違って、彼は娘さんを亡くしました。
私が陥った混乱よりも大きかったようです。
奥さんがいるのだから、2人で取り組めるではないか、と私は思いますが、そう簡単なものではないのでしょう。
まだ混乱のさなかにいます。
それで彼と親しい仲間が、私と引き合わせたのかもしれません。
私の友人たちは、みんなお節介屋なのです。
もちろん彼らは私のこともとても気遣ってくれています。
それは痛いほどよくわかります。
彼と心が通じたのは、私が妻を見送ったことに彼が気づいた瞬間です。
そんな気がします。
彼の悩んでいる問題も少し理解できました。
それは他人事の問題ではなく、私の問題でもあります。
愛する人を失うと、人生は一変してしまいます。
その変化を過剰に感じてしまうのです。
最近、その理由が少しずつわかってきたような気もします。
少しずつこの挽歌でも書いてみようかと思い出しています。
節子
今日は冷たい雨の1日です。
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