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2009/11/26

■節子への挽歌816:「自分も死ぬんだと気づきました」

節子
久しぶりに中西さんの六本木の新しいオフィスに行ってきました。
中西さんのオフィスはどこに移っても同じ雰囲気を維持していますので、とても懐かしいのです。
思えば、中西さんとの出会いが私の人生を変えてのかもしれません。

会うなりに、「今年、父母を見送って、初めて自分も死ぬんだと気づきましたよ」と切り出しました。
数年前、中西さんは死に直面するほどの交通事故にあいました。
しかしその時は「死」を一切意識しなかったそうです。
それが両親の死で、初めて自らの死を実感できたというのです。
とてもよくわかるような気がします。
状況は違いますが、私も節子を見送って、初めて「死」を実感しました。
「死」は、自らに関してではなく、愛する人のよって気づかされるのかもしれません。
もしそうであれば、節子は「死」を実感していなかったかもしれません。
そんな気もしないでもありません。
自分の死は生きている時には体験できませんから、実感もできないのかもしれません。
これに関しては、以前も書いたような気がします。

その中西さんが、残り時間でしっかりと残すべきものを残したい、と言うのです。
私からみれば、すでにたくさんの実績と成果を残しているのですが、
しかし残したいのは、たぶんそんなものではないのでしょう。
自らが活動してきたことから学び気づき、創りあげてきたものを、しっかりと後世に残しておきたいのでしょう。
中西さんの場合、その価値は十分にあります。
中西さんは一度たりともぶれずに、日本の企業に関わってきています。
だからこそ、残す価値があるのです。

いま4冊の本を並行して書いているそうです。
そして来週から、新しいビジネススクールを立ち上げるというのです。
その内容を聞いて、思い入れの深さを知りました。
尋常ではない気迫を感じます。
「自分も死ぬんだと気づきました」という言葉の意味がわかったような気がしました。

私も節子を見送って、自らの時間を考えました。
しかしその後の行動は中西さんと全く対極にあります。
残された時間は意識するまいと決めました。
つまり「自らの死」を意識しない生き方をしようと決めたのです。
そしてこれまで以上に、無目的に、わがままに、素直に生きようと決めたのです。
その結果、死との時間距離は無限になりました。
もしかしたら、私の場合は、もうすでに死んでいるのかもしれません。

いや、もしかしたら、と思います。
中西さんも同じかもしれない。
対極にあるように思えて、実は同じなのではないか。
いま、これを書きながら、ふとそんな気がしてきました。
「死」を知ると、みんな同じになるのかもしれません。
別れ際に感じた、あの奇妙なぬくもりは何だったのでしょうか。

節子
みんな歳をとってきています。

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