« ■魔女狩りを感じさせる新聞 | トップページ | ■グローバル人材になるには祖国を捨てなければいけないのか »

2009/11/18

■節子への挽歌808:「価値をおく理由があるような生」

しばらく「死」について書いてきたので、少し「生」について書きます。

新しい視点で厚生経済学に大きな影響を与えているインドの経済学者アマルティア・センは、自由とは、「本人が価値をおくような生、価値をおく理由があるような生を生きられる」こと、と言っています。
この捉え方は、従来の発想での「自由」とはまったく別のものです。
この定義に出会った時、私は感動したものです。
しかしよくよく考えてみると、これはとても意味深い定義です。
簡単にわかったような気になってはいけないと、だんだん気づいてきました。
難しいのは「価値」という言葉です。
「価値」という言葉は学生の頃から私を悩ましていた言葉なのです。
でも、今回はあまりこだわらずに、書くことにします。

節子がまだ元気だった頃、私は「人は何のために生きるか」ではなく「誰のために生きるか」が大切だと書いたことがあります。
当時、人生の意味を問われたら、私は躊躇なく即座に「節子がいるから」と答えたでしょう。
節子が、私の人生に意味を与えてくれていたからです。

言い方を変えれば、「節子が価値をおくような生」こそが、「私が価値をおく生」だったのです。
ですから、もし節子がいなくなったら、私はとても生きてはいけないと思っていました。
人生に意味づけしてくれていた節子がいなくなったのであれば、もう生きる意味もありません。
事実、節子がいなくなってから1年は、私はあまり「生の実感」がありませんでした。
節子がいない人生は、私にはとうてい価値があるとは思えなかったのです。
センの言葉を借りれば、私から自由は奪われ、翼を失った鳥のように、ただ生きていたのです。

いまはどうでしょうか。
私は自由でしょうか。
実は、とても自由な気分なのです。
節子がいなくなったからではありません。
節子が与えてくれた人生の意味は、いまなお健在だと思えるようになってきたからです。

センの自由の定義は、私の言葉で言いかえれば、「自分を素直に生きているかどうか」です。
私の「自由な生き方」に心底共感し、共有してくれていたのが節子です。
ですから私にはお金も名声も、評判も残すべきものも全く不要でした。
すべては節子がわかっていてくれたからです。

他の人は、なかなか私をわかってはくれません。
それはそうでしょう。
人は他者を決してわかりようがないのです。

節子はいまなお私の人生に意味を与え続けている。
最近そういう気がしてきたのです。
さらに、もしかしたら、私の生き方を、理解してもらえないまでも少しだけ共感してくれる人がではじめたということも感じ出しています。
今の生き方でいいんだよ、という他者の眼差しをこの頃、なんとなく実感するのです。

だから、節子がいない今も、私は自由に生きられるようになってきたのです。
もう少し、私自身が納得できる生をつづけられそうです。
節子からのエンパワーを、今も時々感じます。

|

« ■魔女狩りを感じさせる新聞 | トップページ | ■グローバル人材になるには祖国を捨てなければいけないのか »

妻への挽歌05」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌808:「価値をおく理由があるような生」:

« ■魔女狩りを感じさせる新聞 | トップページ | ■グローバル人材になるには祖国を捨てなければいけないのか »