■節子への挽歌818:遺族はすべて同じ
節子
今日は湯島で「自殺のない社会づくりネットワーク」の交流会をやりました。
なんと19人の人たちが集まってくれました。
東尋坊の茂さんも、わざわざ来てくれました。
重いテーマだからこそ、明るく語りたいと私は思っていますが、明るく語ることは結構難しいのです。
私自身も時々重くなってしまいます。
節子とのことを思い出してしまうからです。
死を克服したつもりでも、いざ生々しい話が出てくると、後悔の世界に陥ってしまいます。
節子は自殺ではなく病死でしたが、残されたものにとっては、同じことなのです。
自死遺族だけが特別なのではない、と私は思います。
遺族はすべて同じです。
闘病中の節子にしてやれたことがたくさんありました。
なぜその時、気づかなかったのでしょうか。
みんなの話を聴いていていまさらながら、自分のだめさ加減を思い知らされるのです。
だからこの交流会には参加したくないのですが、逃げるわけにはいきません。
私に課せられた罰なのかもしれません。
できることなら、もう一度、節子と一緒に病魔に立ち向かいたい。
今度は、前のような間違いを犯すことはしない。
そう思っても、それは叶わぬ話です。
人生をやり直せないことが、無性に悔しいです。
今日はちょっと元気が戻ってきません。
| 固定リンク
「妻への挽歌05」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1000:パッセンジャーズ(2010.05.29)
- ■節子への挽歌999:新緑(2010.05.29)
- ■節子への挽歌998:花の季節(2010.05.27)
- ■節子への挽歌997:「解けない問題」(2010.05.26)
コメント