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2009/12/30

■来年はもっとポジティブな時評を目指したいです

最近、時評が書けていません。
単に時間不足なためですが、不思議なもので時評を書かなくなると社会の動きもあんまり気にならなくなります。
時評していると時評したくなるテーマが次々と出てきます。
時評しなくなると時評したい話題も出てこなくなります。
いろいろなことが気になるから時評するのか、時評するから気になるのか。
時評しないで世間の動きなど気にせずにのんびり生きるのが幸せなのかもしれません。

それに最近つくづく思うのは、世上、ネガティブ・コメントが多すぎるということです。
ジャーナリズムのエトスは、批判精神ともいわれますが、相手を貶める批判ではなく、相手を正す批判でなければいけません。
これは結構難しく、私にはなかなかできません。
この時評もネガティブ・コメントが多すぎるので、時に自己嫌悪に陥ります。
他者を時評することは自らをさらけ出し、結果的には自己時評することでもありますので、時々深い嫌悪感に襲われるわけです。

対象がどんなものであろうと、ネガティブな評価は極めて簡単です。
この世に完璧な動きなどあろうはずもありませんから、いかようにも酷評できるのです。
その一方で、褒めるのは難しい。
この時評でも褒めることを書く努力は何回か試みましたが、うまくいきません。
それはおそらく自らが自立していないことが影響しているように思います。
自らに自信のある人は、決して人を見下したり、ネガティブ評価はしないでしょう。
どんな対象の中にも、価値を見出せるのです。
残念ながら、私はそうした心境には程遠いことが、時評を書いていてよくわかります。

このブログは、時評と挽歌から構成されています。
全く異質に見えるこの2つのことが、書いている立場から言えば、深くつながっています。
挽歌の中に時評があり、時評の中に挽歌があることを、最近痛感します。
当初は「心で書く挽歌編」と「頭で書く時評編」と自分でも別のものと意識していたのでしたが、実際に書き続けていると、そんな違いはありません。
結局、いずれにも自分の生き方や気持ちが形になるだけなのです。

来年はもっとポジティブな時評を目指したいと思っています。
前にも一度、同じ事を書いたような気もしますが。

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