■節子への挽歌840:掃除嫌いのわけ
節子
今日はとても暖かい青空です。
大掃除日和だと思い、私の部屋の掃除を始めました。
節子がいなくなってから、以前にも増して掃除をしなくなりました。
掃除は、何がしかの「過去」を捨てることですから。
しかし、私も思い切って捨てることを始めなければいけません。
残していくことは誰かの迷惑になりかねませんから。
掃除のもう一つの問題は、「過去」を思い出すことです。
ちょっとした「モノ」に、節子が見えてしまうこともあるわけです。
40年も生活を共にしていると、至るところに節子の痕跡が残っているのです。
その痕跡に出会うと掃除は一瞬止まってしまいます。
掃除には深い意味があるといわれています。
私もそれにとても共感しています。
私が子どもの頃は学校で掃除をよくさせられました。
会社に入っても、職場の掃除は自分たちでやっていました。
しかしいつの頃から、掃除は外部の業者がやるようになってきました。
学校は今どうなっているか知りませんが、一時期、やはり業者がやりだしました。
それではきっと社会はおかしくなると、当時から掃除嫌いの私でさえ思い、どこかに投書した記憶があります。
しかし生活の場の掃除までもが企業のビジネスになりました。
そんな社会がまともであり続けるわけはありません。
イエローハットの鍵山さんが「日本を美しくする会」を始める、そのもっと以前に、友人から声をかけられて同じ名前の会をつくりました。
続きませんでしたが、その後、鍵山さんと出会い、鍵山さんと一緒に箱根湯本の公衆トイレの掃除をやりました。
それを契機に、わが家のトイレ掃除は私がやると宣言しました。
節子も参加していたオープンサロンで公言したのですが、みんなから続くかなといわれました。
節子は黙って微笑んでいましたが、案の定、1年で挫折しました。
掃除にまつわる思い出もいろいろとあります。
掃除は自らの生き方を問い直すことだと、鍵山さんと話していて思ったことがあります。
そんなことを思い出しながら、掃除をしています。
いまはちょっと息抜きです。
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