■節子への挽歌825:後ろ髪引かれる気分
節子
今日は新潟に出かけます。
私も縁のあるNPOが主催するシンポジウムに参加するためです。
信濃川にサケを遡上させようというのが、シンポジウムのテーマです。
最近、少しずつ遠出する機会が増えています。
節子が元気だった頃は、一人で遠出することに何の抵抗もなかったのですが、節子がいなくなってからは、なぜか気乗りがしなくなってしまいました。
これは不思議です。
節子がいればこそ、家に節子を残して出張したくない。
節子がいなくなったのだから、家をあけても気にならない。
論理的に考えると、そうなるはずですが、なぜか反対なのです。
まるで節子が自宅にいて、私に家にいてほしいと言っているような気がするのです。
前にも書きましたが、節子がいなくなってからの方が、帰宅時間も早くなりました。
彼岸には時空間がないのであれば、私がどこに行こうが節子は私と一緒のはずですが、どうもそういう気はしないのです。
節子は今も、わが家で私の帰りを待っている。
しかも、その節子を本当に実感しているのは今や私だけ。
その思いからどうしても解放されません。
新潟は私の両親の出身地です。
にもかかわらず、私は節子を一度も新潟に連れていきませんでした。
そのこともとても悔やまれます。
行く機会は何回かありましたが、私自身があまり行きたくなかったのです。
節子のことを気にいってくれていた叔母が小千谷にいますが、そこにも行けませんでした。
節子はもしかしたら行きたかったのかもしれません。
いろんな意味で、節子が逝くのは早すぎました。
やりのこしたことが多すぎます。
節子がいなくなってから、私の在宅時間は大幅に増えました。
なぜ節子が元気だった時に、こういう生活をしなかったのか。
本当に悔やまれます。
今ではもう、いくら在宅していても、節子と一緒に過ごせるわけではないのです。
しかしなぜか自宅にいると節子と一緒にいるような安堵感があるのです。
この感覚はいったい何なのでしょうか。
でも今日は、その節子を置いて新潟に出かけます。
いつものように、大きな声で「いってきます」と節子に言ってから出かけます。
節子は聞いているでしょうか。
見えない節子を残して出かけるのは、本当に寂しいです。
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