■節子への挽歌823:「あなたを忘れない」
「生きた証」を残したい。
そう思っている人が私の周りには何人かいます。
もしかしたら、そういう思いは誰にもあるのかもしれません。
節子も私も、お互いに元気だった頃はそういう思いは浮かびませんでした。
特に私は、生きた証など残して何の意味があるのかと思っていました。
覚えたい人が覚えてくれていたら、それでいいではないか。
何かを残すための人生ではない。
それが私の生き方でした。
私の家族の記憶は、せいぜいが祖父母までですが、一緒に暮らしたことのない祖父母の記憶はほとんどありません。
父母のことははっきりと覚えていますし、今の生活につながっていることもありますが、父母から「自分のことを忘れないでほしい」といわれたこともありません。
父母は平凡な庶民でしたから、私や私の娘の人生とともに、父母の人生も終わるでしょう。
人のいのちや生活は、そうやって消えていく。
それでいいのではないかというのが私の考えです。
しかし、節子が病気になり、そして旅立ってしまってからは、その考えが少し変わりました。
この挽歌でも何回か書きましたが、節子のことを思い出す人が多いといいなと思うようになったのです。
誰かが思い出すことによって、節子は生き返ってくる。
そんな気がしだしたのです。
今は亡き作家の森瑶子さんは、みんなに「私のこと、覚えていてね」と言い遺したそうです。
もっとも、森さんは生前においても、別れ際に「何よりもかなしいのは忘れられた女。だから私のことを忘れないでね」とよく言っていたという話も、何かで読んだ記憶があります。
誰かに覚えてもらうことで、自らの人生は続けられる。
誰かに気にしてもらっているだけで、人生の意味が変わる。
そのことがわかりだしたのは、節子を見送ってからのことです。
しかし、少し理屈っぽくいえば、節子がいる世界こそ私が生きている世界だからなのです。
言い方を替えれば、私が生きていけるようにするために節子を思い出す人がいないといけないのです。
日本ドナー家族くらぶ代表の間澤さんとは最近お会いしていませんが、間澤ご夫妻は臓器提供した娘さんのことが忘れられないことを願っています。
それで、みんなに「あなたを忘れない」と言ってもらうビデオ作品をつくりました。
私も登場させてもらいましたが、その時にはまだ間澤さんのお気持ちをしっかり受け止められていませんでした。
今にして思えば、間澤さんのお気持ちがとてもよくわかります。
「あなたを忘れない」
この言動は、生命の連続性を支える鍵なのかもしれません。
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コメント
私も、主人のことを関係のあった方々に覚えておいてほしいと切に願っています。
ご迷惑にならない程度にと自戒しながらも・・・つい主人の話をするときには力が
入ってしまいます。
何もなかったかのように動いていく世界を見ていると、時間と共に過去のことに
なっていかないかと、身を切られるような気持ちになります。
ただ不思議なことに、私のことは過ぎ去った風のように思ってほしいと思って
います。そして、もっと勝手なことに私が主人のところに行ったら、
「忘れてもいいよ」って思うのです。どうしてこんな妙な思考になるのでしょうね。
臓器移植についても、今は役立つ臓器はどうぞどうぞと思っているので、意思表示
カードも持ってます。目以外の臓器は全てと思ってます。おかしな感覚なのですが
目だけはやっぱり会った時に見える方がいいと思っているのです。
私がドナーになりたいのは「忘れてほしくない」のではなくて、主人の病気が
臓器移植しか方法がなかったことに起因しています。とにかくお役にたてばそれで
いいと。。。間澤さんがお嬢さんの臓器を提供されたことでお嬢さんが生きていると
いう気持ちもとってもよく分かります。お嬢さんは生きている、生かされていると
思います。自分がどうするかという時と、誰かのものをどうするかという時とでは
思いは違いますよね。
投稿: masa | 2009/12/10 00:24