■節子への挽歌821:輪廻転生と招魂再生
節子
今朝もいつものように、節子の位牌に水を供え、灯明をともし、般若心経をあげました。
般若心経をあげるとき、いつも迷うことがあります。
目線をどこに合わせるかです。
最上段にある大日如来、2段目にある位牌、3段目の遺影。
位牌にこそ節子がいると思いながらも、大体において、私は写真を見ながらのことが多いのです。
やはり笑顔を送ってくれる写真が私をひきつけます。
時々、大日如来にも目を合わせますが、私にとっては、大日如来よりも節子が大事であり、節子に語りかけたいのです。
ですから仏壇というよりも位牌壇というべきかもしれません。
仏は輪廻転生を守ってくれるのに対して、位牌は招魂再生の象徴です。
本来、それらは矛盾するはずですが、日本では自然に並存しています。
私も生命の連続性に共感していますが、同時に輪廻転生も信じています。
全く矛盾しているのですが、まあそこはあまりこだわらないようにしています。
ただ、節子には解脱して成仏してほしくはありません。
成仏するとしても、私が節子を成仏させ、一緒に解脱したいと思っています、
ですから、来世でもまた節子と出会えると思っているわけですが、そのくせ、現世にも呼び戻したいなどと思ってもいるわけです。
魂は彼岸ではなく、此岸にいるという儒教の思想も受け容れているのです。
招魂再生は儒教の教えです。
仏教では魂は彼岸に行き転生しますが、儒教では魂は此岸に残り憑依します、
転生する魂には「個」がありますが、招魂される魂は、連続体としての生命体の一部だと、私は考えています。
大きな生命体の「塊」のようなものであり、どこかでみんなつながっている。
儒教の思想を読んでいると、そんな気がします、
私が儒教に触れたのは下村湖人の「論語物語」でした、
その影響は、少なからず受けたはずですが、なぜか私の生き方の基軸は、親子軸ではなく夫婦軸でした。
生命の連続性を実感できる親子と違って、夫婦はその実感はなかなか得られないはずです。
その夫婦が、生命の連続性や一体性を感ずるのはなぜでしょうか。
生命は、私たちが思っている以上に、大きく壮大な連続体なのかもしれません。
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