■節子への挽歌831:人を愛することは辛いことを背負うこと
節子
12月になり、我孫子駅前の花壇にイルミネーションがつきました。
その点滅を見るたびに、やはり節子を思い出します。
花かご会の人たちがいまも花壇の手入れをよくしてくれています。
わが家の周辺でもイルミネーションがつきだしました。
節子がいたら、わが家ももうきっとイルミネーションが点滅しているのでしょうが、今年はまだです。
節子はイルミネーションが好きでした。
闘病時でさえも、ユカの誘いで都心まででかけていました。
私は全く興味がないので付き合いませんでしたが、後悔しています。
付き合えるときには付き合っておかないと後で後悔する羽目になりかねません。
みなさんも伴侶や家族からの誘いにはできるだけ付き合うのがいいです。
付き合えなくなってからでは遅いです。
イルミネーションといえば、もう一つ後悔していることがあります。
たしか星の形をした電飾だったと思いますが、節子が買おうといったのに、その形がどうも好きになれずに、もっといいものを探そうといって買わなかったことがあります。
ところが「もっといいもの」は見つける前に、節子は逝ってしまいました。
節子がいなくなった後は、お店の電飾のコーナーに行くこともなくなりましたから、もっといいものがあるのかないのか、今もってわかりませんが、あの時、なぜ素直に買わなかったのだろうと悔やまれます。
こうしたちょっとした「後悔」が、いまも時々、心をチクチクさせます。
いつまでもだらしないといわれそうですが、私にとっては未来永劫つづくことでしょう。
そのチクチクが、節子を思い出させてくれるのですから、私には悪いことではありません。
節子がいなくなってから、わが家の「かがやき」は少し弱まっています。
年明けにはジュンも家を出ます。
近くなのと、わが家の庭にスペインタイルの工房があるので、毎日のように通ってくるでしょうが、また一つ「かがやき」が消えるような気がします。
幸いにユカが残ってくれていますので、私一人になるわけではないのですが、家族の数が減っていくのはさびしいものです。
もしかしたら、家族が減ることで、伴侶の絆は深まるのかもしれません。
外で見かける老夫婦を見て、いつもそう感じます。
みんなとても仲が良さそうです。
その理由が何となく最近わかってきたような気がします。
私にはもう寂しさを引き受けてくれる伴侶がいないと思うと、少し辛い気もします。
いや、何よりも辛いのは、娘の結婚を喜び合う伴侶がいないことかもしれません。
私たちは、仲の良い夫婦でした。
でも残念ながら、本当の仲の良さを味わうまでには至らなかったのかもしれません。
節子と一緒に過ごす縁側で日向ぼっこを体験できなかったのが、私の最高の不幸かもしれません。
人を愛することは、つらいことを背負うことなのかもしれません。
今日の空は、日本海地方の冬の空です。
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コメント
>家族が減ることで、伴侶の絆は深まるのかもしれません。
>外で見かける老夫婦を見て、いつもそう感じます。
>みんなとても仲が良さそうです。
>その理由が何となく最近わかってきたような気がします。
私も、その通りだと実感しています。
「カップル」で歩いている“ご夫婦”を見たとき「羨ましく」感じます。
何がっと思っても、唯何となくなのです。理由付けが出来ませんが・・。
私は、今まで「人を“羨む事”は、いけない事!羨むべきではない”」と
自分に言い聞かせてきました。
しかし、最近は、老夫婦が、ただ歩いているだけでもそう感じます。
お互いの重ねてきた「年輪」なのでしょうか?そして、その「年輪」は“一朝一石に”出来るものではない。と言う事が判ってきたからでしょうか?
投稿: 根本 賢二 | 2009/12/11 17:35
スミマセン。加筆して下さい。
>その「年輪」は“一朝一石に”出来るものではない。と言う事が判ってきたからでしょうか?
「年輪」は、決して「同一円ではないことも」或いは大きく“くねった所”も有ることを
投稿: 根本 賢二 | 2009/12/11 18:12