■節子への挽歌824:もやもやがたまっています
節子
最近、やはり自分がかなり変わっているのではないかという気がしてきています。
人と話していても、根本的なところで通じ合えないのです。
発想が根本から違うようです。
昨日は5人の人たちが湯島のオフィスに来ましたが、そのうちの2人の人と話していて、奇妙に居心地の悪さを感じたのです。
一人は昔からの知り合い、一人はほぼ初対面の人です。
テーマはいずれも、「社会を変えたい」です。
一人は30歳で起業し、成功を収めた会社経営者です。
60歳になったら企業をやめて社会に役立つ生き方をしようと決めていたそうで、昨年からある勉強会に入り、準備を進めてきたそうです。
そこで、私のことを聞いたのです。
そして、最近、高収益をあげていた企業を社員に引き継いでもらい、これからは個人として、若い人を育てる社会活動をしたいのだといいます。
切り口も決まっています。
それで私のところにやってきてくれたのです。
もう一人は、昔からの知り合いです。
私とは違い、大きな構想で、社会変革に取り組んでいる人です。
新たにあることを起こしたいといって、相談にきました。
実はこういう話が多いのです。
私は資力はもちろん、力もありません。
その上、きわめて怠惰で、自分で共感できないことには全く心身が動かないタイプです。
しかし、なぜかいろんな人が話に来ます。
その理由は、私が社会のためにいろいろと活動をしている人と思われているからです。
たぶん、私のことをそういう風に紹介してくれている人がいるのです。
先日もある人から、外から見るとそう思われても仕方がないといわれました。
私は、単に社会から脱落しているだけなのですが。
このブログの時評編を読んでくれている人にはわかってもらえると思いますが、私は社会のために生きているわけではありません。
社会などという、実体のない概念のために生きるほど、私は器用ではありません。
私は、自分をしっかりと生きているだけです。
もっとも、挽歌を読んでくれている人は、社会どころか自分の伴侶のために人生を無駄にしているだけの人と思われているかもしれません。
まあ、それも正しいかもしれません。
しかし社会が病んでいるという気はしています。
その病んだ社会への私の取り組み方をきちんと理解し共感し、一緒に行動してくれていたのが節子です。
人を理解することは難しいです。
みんなに私の生き方をわかってもらおうなどということは無理な話なのでしょう。
しかし、みんなから誤解されていることは、あまり気持ちがいいものではありません。
節子がいた時は、節子が理解してくれていたので、だれからなんと思われようと気にもなりませんでした。
節子に話すだけで、すっきりできたのです。
でもいまは、すっきりしようがありません。
心身にたくさんの「もやもや」がたまりだしています。
困ったものです。
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