■節子への挽歌848:「私は死ぬのをやめました」
ドキッとする文章に出会いました。
「私は死ぬのをやめました」
建築家の荒川修作さんが、もう50年前からよく言っている言葉だそうです。
そこに含まれているさまざまなメッセージにではなく、私は単にその言葉そのものにドキッとしました。
なぜドキッとしたのか。
それは、この言葉を節子が発していたような気がしたからです。
厳しい闘病生活のなかで、節子は2回、家族全員に向かって「もう逝きたい」というメッセージを出しました。
そのころは思うように話せずに、手元もノートにそう書いたのです。
みんなは、それは駄目だと元気づけたのですが、そのことがずっと心のどこかに引っかかっているのです。
しかし、節子はその後、そのメッセージを出すことはありませんでした。
闘病生活はますます厳しいものになっていったのですが。
後で考えると、節子はみんなに受け入れられなかったために、「死を超えた」のかもしれません。
「死後の生」を生きていたと言ってもいいでしょう。
そんな気がしていました。
「私は死ぬのをやめました」
この言葉に出会った時、なぜかすぐに節子のことを思い出しました。
そうか、節子はあの時、「死ぬのをやめた」のだと気づいたのです。
節子がいかに私たちを愛してくれていたか。
節子のやさしさが胸をしめつけます。
もちろん、節子は口に出してそういったわけではありません。
しかし、口に出さなくても伝わってくる言葉はあります。
死ぬのをやめた節子は、したがって、今も生きているわけです。
この言葉に出会ってから、いろいろと考えているのですが、どうも考えがまとまりません。
思いがうまく表現できないのです。
今日、見知らぬ人からメールが来ました。
私は今年の8月、愛する人を自死によって亡くしました。その人のブログを読ませてもらいました。
もしかしたら、「私は死ぬのをやめました」ということは、「私は生きるのをやめました」と同じ言葉なのかもしれないと、ふと思いました。
前にも書いたような気がしますは、「生」と「死」は決して対語ではありません。
次元の違う言葉です。
そして、「愛」は、その「生」と「死」を超えているのかもしれません。
上記の2つの言葉には、いずれにも深い「愛」を感じます。
「私は死ぬのをやめました」と節子に言いたかったですが、節子に先を越されてしまいました。
それがちょっと無念です。
私が言うべき言葉でしたから。
この言葉を言い出した荒川さんの意図とは全く違う解釈になっていて、申し訳ありません。
でもこの言葉がとても気にいってしまいました。
「私は死ぬのをやめました」
世界が広がる言葉です。
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