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2009/12/09

■節子への挽歌829:悲しみの先にも平安はあるのでしょうか

「深い苦しみほどわれわれを気高くするものはない」
と言ったミュッセという人に興味を持って、ネットで少し調べてみました。

アルフレッド・ド・ミュッセ。
19世紀前半を生きた、フランスのロマン主義の作家でした。
ウィキペディアによれば、「その詩はうわべの抒情、表面的な憂愁に満ちていて、ロマン主義のもっとも軽薄な部分が出ていると言える」とあります。
あんまり評判は良くないようです。

少し訳し方の違う文章に出会いました。

「苦悩こそが人生の真の姿である。われわれの最後の喜びと慰めは、苦しんだ過去の追憶にほかならない。」

同じ文章の訳でしょうか。だいぶニュアンスは違います。

時評編で新潟水俣病に取り組んだ北野さんのことを書きましたが、北野さんの人生を決めたのはハンセン病の人との出会いでした。
ミュッセが言っているのは、他者の苦しみではなく自らの苦しみでしょうが、他者の苦しみを自らのものとする時ほど、苦しみの深さが続くことはありません。
自らの苦しみは時間と共に順応できますが、他者のそれは記憶の中で増幅される一方だからです。

節子の苦しさを時々思い出します。
本人ではないのですべてわかるわけではないのですが、だからこそ思い出すたびにその苦しさに私が的確に対応していたかどうか後悔するのです。
後悔は私自身の苦しみと悲しみに変わります。
とても不安な気持ちが全身を覆いだし、頭が混乱しだし、結局は突然夢から覚めたように一瞬にして思考放棄することで平安を回復します。
残るのは節子への懺悔の気持ちと節子を抱きしめたい気持ちです。

その苦しさから、私は気高さを得たでしょうか。
残念ながらまだとしかいえません。
深さが足りないのかもしれません。
ただ、視野の広がりは得られたような気がします。

苦しさや悲しさを体験すると、世界がよく見えるようになります。
人の心が見えてくるのです。
それがまた、別の苦しさや悲しさを生み出します。
人はそうやって気高くなっていくのでしょうか。
「気高い」とは「平安に」ということだろうと、私は考えているのですが。

苦しみの先に喜びと慰めがあるのであれば、苦しみには救いがあります。
悲しみの先にも喜びと慰めがあるのでしょうか。
せめて「平安」だけはあってほしいと思っています。

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