■節子への挽歌836:私たちが結婚したころのこと
昨日、娘の結婚のことを書きましたが、私たちの結婚ととてもよく似ています。
娘たちにきちんと話したことはありませんので、結果としての一致です。
私たちはたぶん年末に同棲しはじめました。
単に一緒に生活を始めたという意味です。
年末にそれぞれの親元に戻り、結婚の了解をとることにしていました。
それまでにある程度の話はしていたような気がしますが。
必ずしも積極的な賛成が得られず、しかし反対してもどうにもならないということで、幸いに勘当されることもなく事実として了承されました。
それで入籍したのです。
残念ながら元日には間に合わずに、まあ切りのよさで1月11日にしようと決めました。
11日に届けに行ったかどうかもわかりませんが、その頃の私は制度や届出なんてどうでもいいという考えでしたので、たぶん節子に一任していたはずです。
私は若い頃は、いま以上に世間に背を向け、世間的ルールに反発していました。
節子が、それに気づいたのは、たぶん結婚してかなりたってからだと思います。
しかし、節子もどちらかといえば、私に似たところがありました。
世間体を気にするようで、気にしないタイプでした。
どこかで心が通じ合うところがあったのです。
節子と話していると、とても居心地がよかったのはそのためです。
最初の新居は6畳と2畳と狭い台所だけでした。
いつか書きましたが、「神田川」の世界でした。
そこで4か月ほど暮らしましたが、入籍後しばらくして、会社の社宅に転居しました。
しかしそこも3か月ほどしか住みませんでした。
東京に転勤になったのです。
結婚した当時、私は8万円の貯金しかありませんでした。
旅行費用と1万円の結婚指輪、借家の賃料など払ったらもう残りません。
テレビも変えませんでした。
親からは一切の支援を拒否しました。
結局、私の数倍の貯金を持っていた節子のおかげで生活が持続できました。
その頃から、金銭面のことはすべて節子にお任せの原型が出来上がったのです。
節子の金銭感覚は、おそらく私よりもおかしかったですが、それはお金なしで家計を始めたせいかもしれません。
お金がなくてもどうにかなるという、いささか現実的ではない生き方が始まったのです。
娘たちの話も、私たちととてもよく似ています。
娘とはいえ、私のことではないので書くのはやめますが、彼らも世間体や社会的な常識にこだわることなく、自分たちの生活を始めようとしています。
結婚式もしませんし、特別の新婚旅行もないそうです。
娘にきちんとした結婚式をさせたいと思うのが多くの親の気持ちなのかもしれませんが、どうも私にはその気持ちが弱いのです。
やはり私は親としてはいささか適格性を欠いているのかもしれません。
娘の幸せを願う気持ちは、だれにも負けないと思う一方で、幸せはそれぞれによって違うものだという思いもとても強いのです。
人によっては、一見、不幸そうに見えることさえ幸せなこともあることを知っているからかもしれません。
娘の結婚に思うことは山のようにあります。
私たちがそうであったように、ともかく自分たちの物語を創りだしていくことが人生の最大の幸せだとしたら、幸せと不幸とは決して対立しないのです。
不幸のなかにも幸せはあるのです。
節子がいなくなっても、私たちの物語はまだ終わっていません。
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