■節子への挽歌875:余命25年
私の余命はあと25年間です。
永遠の生を得ることの辛さの話はいろいろありますが、まあ25年はそれほど長くはないので、そうつらいことではないでしょう。
あっという間の25年かもしれません。
私は一応93歳まで生きることになっています。
20年ほど前に、ある人(その人も霊能力のある方です)がわざわざ大阪まで行って確認してきてくれました。
その人は、だれと付き合うべきかどうかを決めるために大阪まで行ったのかもしれません。
私はそんなことは知りたくもなかったのですが、信じることにしました。
余命と同時に私のことをいろいろと評価してくれたのですが、それがとても良い評価だったからです。
私は素直なので、私にとって好都合のことは全て信じるタイプなのです。
当時、節子は笑って聞いていましたが、その時に私が確認すべきは自分のことではなく節子のことでした。
しかし、私の頭の中では、私の余命+2年が節子の余命と決めていました。
残念ながらそうはなりませんでした。
それまでの私は、自分で思ったことがほぼ実現してきましたので、まさかそれがはずれるなどとは思ってもいませんでした。
その頃から私の人生は斜陽化し、あまり良いことがありません。
私の「幸運」はすべて節子のおかげだったのかもしれません。
なんだか「夕鶴」のような話になってきましたね。
私の余命を占ってくれた人は、フーチを使ったようです。
余命がわかるフーチなるものがあると知って、それが無性に欲しくなり、無理を言って手に入れました。
むやみに使ってはいけないといわれたので、使わないまましまっています。
使い方の資料がなくなってしまったので、今となっては使えないのですが。
まさに宝の持ち腐れです。
しかし皮肉なものです。
節子のいない人生をあと25年続けるのは、それなりに努力がいるかもしれません。
この挽歌を書き続けるとして、何回になるでしょうか。
思っただけでも気が遠くなります。
やはり余命は知らないほうがいいですね。
短くても長くても、知って良いことはなにもありません。
不謹慎な記事ですみません。
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