■節子への挽歌876:違いがあることと分かり合えること
一昨日、自殺のない社会づくりネットワークの交流会がありました。
参加者の一人が、自殺を考える人と自殺家族の遺族とはまったく違う、という発言をしました。
その発言には思わずうなずいたものの、その違いとは何だろうということが気になりだしました。
この2日間、そのことを考えるでもなく考えていました。
私の基本的な信条は、違いがあればこそ分かり合えるというものです。
だからこそ「大きな福祉」という理念でこの10年近く活動してきたのです。
そして自分では体験もない、自殺や難病や障碍の大きい人たちとも関わってきたのです。
違いはあるが、その根底には通ずるものがある。
そこにこそ焦点を与えていかないと問題は見えてこないのではないか。
それが私の考えでした。
しかし、その発言をされた方は違いがあるが故に分かり合えないというニュアンスでした。
そしてその発言に私の心身は即座に共感したのです。
頭で考えていることと心身で考えていることがどうも違うのです。
この挽歌の多くは、頭ではなく心身に反応して書いています。
なにも考えずにパソコンに向い、前にある節子の写真を見ていると自然とパソコンに入力できるようになるのです。
パソコンに向かう前に、書くことが思い浮かぶこともありますが、その場合も思い浮かんだままをパソコンに打ち込んでいます。
ですから支離滅裂なものも内容がよくわからないものも少なくないはずです。
いろいろと頭で考えて書いたつもりのものも、翌日、もう少しきちんと整理して書けばよかったと思うことが少なくありません。
たとえば一昨日の「北京のふたり」に関して書いた挽歌などは、翌日読み直して、なんだこれはと思うほど、意味不明です。
ですからこの挽歌に書かれているのが、私の心身の反応と言って良いでしょう。
その内容は、やはり「私の気持ちなど誰にもわかるはずがない」という感じで貫かれています。
違いがあればこそ分かり合えるという、私の信条は明らかに私の心身の生の言動に一致していないのです。
恥ずかしながら、そのことにやっと今日、気づいたのです。
先日、「人間がわかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話」と書きました。
その言い方を使えば、時に人は、わかり合いたくないと思うことがあるのかもしれません。
私も、節子を見送った後、そういう気持ちになったことがありますし、いまでもどこかにそういう思いをもっています。
しかし、そういう思いは自らの孤立につながりかねません。
そこから抜け出ないといけないと言うのが、宮沢賢治のメッセージだったのではないか、と突然宮沢賢治が出てきてしまいましたが、そう思います。
この問題は、そう簡単ではなさそうです。
もう少し考えてみなければいけません。
自殺者と遺族の違いは、もちろんきちんと説明できますが、先に書いた「発言者」は、そんなことを言っているのではないことはいうまでもありません。
念のため。
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コメント
挽歌を一生懸命読み取ったつもりですが、読解力に自信がある訳ではないので
もし、的外れのコメントでしたら、どうかお許しください。
その場合、掲載は不要ですのでよろしくお願いします。
-*-*-*-*-
私は「死にたい人」の気持ちなど、分かりたくもないと思っていました。
私自身は「生きたい人」なので、死にたい人に興味はありませんでした。
ところが、人を好きになって、その人は「死にたい人」だったのです。
「死にたい人」の気持ちを分かりたいと思うようになりました。
愛する人を分かりたいという、ごく自然な思いです。
愛する人もまた、それまで、
「私の気持ちなど、誰にもわかるはずもない」と孤独に生きていたのに
生きる意味を考えてくれるようになりました。
好きになった人(私)が「生きたい人」だったので、彼もまた、
私と分かり合いたいと思ってくれたのだと思います。
私は今も「生きたい人」ですが、彼が私を精一杯愛するために、自殺したことを分かっています。
生きたい私が、彼の自殺を受け入れることは、容易なことではありませんでした。
愛がなければできません。
彼の今の思いは想像するしかありませんが、私の愛の深さを感じてくれているはずです。
生きることの意味を、死ぬことによって知ったような気がしています。
さて、彼以外の自殺された方には申し訳ないのですが、自殺に対しては、やはり否定的な感情しかありません。
私が受け入れることができたのは、愛する人の自殺だけです。
彼以外の自殺を、やっぱり許すことができません。
そして自殺で逝ってしまった家族のことを許してあげることができないご遺族の方とも、
私は分かり合えない気がしています。
愛する人を自殺で亡くした、という事実は同じでも、状況が「同じ」か「違う」かは、
分かり合う基準ではないのだと思います。
愛し方が似ている人と、分かり合いたいと思っています。
そして、分かり合えるような気がします。
投稿: いろは | 2010/01/25 18:11
いろはさん
ありがとうございます。
私の勝手な文章を一生懸命に読み取ってくださったことにとても感謝しています。
>ところが、人を好きになって、その人は「死にたい人」だったのです。
「死にたい人」の気持ちを分かりたいと思うようになりました。
愛する人を分かりたいという、ごく自然な思いです。
そうですよね。
自然な思いですよね。
愛は、すべてのものを氷解させますね。
>分かり合う基準
これも少し考えてみたい言葉です。
分かり合う基準は、なかなか他の人にはわかってもらえないですね。
誰かを愛すると世界が広く、そして深くなるような気がします。
でも広くなればなるほどに、深くなればなるほどに、ますます淋しくなるのが少し残念です。
私もまだなかなか立ち直れずにいます。
投稿: 佐藤修 | 2010/01/26 21:32