■節子への挽歌862:「目指されるべきひとつの場所」
吉本隆明は、死を「目指されるべきひとつの場所」と語っているそうです。
節子も知っている柴崎明さんが送ってきた「流砂」第2号に掲載されていた中村礼治さんの「死をめぐって」という小論で、このことを知りました。
中村さんは、死を「目指されるべきひとつの場所」というのは、「人は死ぬために生きている」ということと重なる言い方だと書いていますが、私は全く違うような気がします。
それはともかく、吉本隆明は死について次のように定義しているそうです。
中村さんの論文から引用させてもらいます。
私たちは生きている限り、必ず社会や家族の中で特定の位置を占め、その結果、自己や社会や家族について見ることができない部分、判断することができない部分を必然的に持つことになる。難しい定義です。
これに対して、死はそうした「できない部分」の消滅を意味する。
そこで中村さんは、その定義を解説してくれます。
そしてこう言うのです。
生きるということは、自らの身体が限られて時間に、限られた場所を占め、限られて方向を向いているという、身も蓋もないほど「個別的」なことだ。普遍性。
死はその「個別性」の否定であり、時間と空間による限定を脱して「普遍性」へ向かうことにほかならない。
捉えようのない不確かなもの。
しかし同時に、常にそこにある確かなもの。
このあたりまでは、私の体験からしても納得できるのですが、それに続いて中村さんは冷酷にもこう言い切るのです。
「普遍性」への移行はまた、限定された存在、欠如ある存在から、限定されない存在、完結した存在へと向かうことを意味する。
生者は欠如ある存在であるが故に、それを埋めるために他者を必要とする。
しかし、死後は完結した存在となり、もはや他者を必要としない。
残された生者は自分たちが必要とされなくなったことを悲しみ、時には恨みさえする。
死者は他者を必要としない!
そんな馬鹿な!
死者こそ他者を必要としているのではないか。
そう思いながらも、奇妙にうなずけてしまう気もするのが残念です。
しかし、節子はあまりに欠如だらけだったので、今もなお完結はしていないでしょう。
まだ私を必要としているはずです。
吉本隆明の死の定義に関しては、もう少しいろいろと書きたいのですが、新年そうそうからのテーマには重すぎるので、しばらくは忘れることにします。
生と死、そして愛は、深く重なり合っています。
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