■節子への挽歌872:それぞれの事情
セルフヘルプグループの話の続きを書こうと思いながら、この2日間、うっかり別の話を書いてしまいました。
一昨日書こうと思ったテーマは2つあります。
「人間がわかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話」ということと、「同じ状況にあるようでも実はそれぞれに違うのではないか」ということです。
今日は、この後者の話を少し書きます。
この挽歌を読んでメールをしてきてくれる人がいます。
メールですから相手がどんな人か最初は分かりません。
しかし不思議なことに最初から問題を共有しているような気がして、他人とは思えません。
そういう人からのメールを読んでいると、私が書いているのではないかと思うこともあるのです。
逆にまったく正反対の気がすることもあります。
その中間は、これまではありませんでした。
直接会いに来てくださる人もいます。
面識のまったくない人が突然自宅にやってきたときには驚きましたが、私よりもまだ時間が経過していなかったので、少し前の自分を思いだしました。
ともかく「話したい」のです。
その人は1時間以上、見送った夫のことを話し続けて帰っていきました。
その気持ちがいたいほど伝わってきました。
わざわざ地方から来たのに、一言も「その話」をせずに帰っていった人もいます。
その人とは別の機会にまたお会いする機会がありましたが、その時も一切話はされませんでした。
それもまたわかるような気がします。
会いたいが、まだどうしても行けないという人もいます。
同じようにブログを書き始めた人もいます。
それぞれみんな少しずつ違うのです。
違うのですが、止まっているようで少しずつ動いていることが分かります。
私自身が動いているからそう感ずるのかもしれませんが、人は多分止まってはいられないのです。
そうした人たちがいまもこの挽歌を読んでいるかどうかはわかりません。
他者の独白を聴き続けることは楽なことではありません。
それでも読んでくださる人がいることに力づけられながら、私はこの挽歌を書いています。
私にとっては、このブログこそが見えないセルフヘルプグループ入り口なのかもしれません。
いつかみなさんとお会いできると良いのですが。
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