« ■最近自分への嫌悪感が高まっています | トップページ | ■「あの人たちはずるいんです」 »

2010/01/22

■節子への挽歌873:わかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話

昨日、書き残したテーマが、「人間がわかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話」ということです。
私と節子はお互いにわかりあえていたと思いますが、絶対に自信があるわけではありません。
節子は時々、修のことがわからなくなるといっていたからです。
しかし、逆にいえば、こういう言葉が出ることこそ、私たちがわかり合えていたことの証であると、私は思うのです。
わかり合えていなければこんな言葉は出てくるはずがないですから。

人はわかり合えるのだろうか。
これは、私の学生の頃の関心事でした。
当時、達した結論は、わかり合えるはずがない、ということでした。
以来、「ディスコミュニケーション」が私のテーマでした。
以来、「コミュニケーションとはディスコミュニケーションの受容」と考えています。
2つの異なる人格、もしくは意味体系が、わかり合えるなどということはありえない話だからです。
日本広報学会を立ち上げた時ですら、私はそう思っていましたので、コミュニケーション志向の強いメンバーとはまさにコミュニケーションが成立せずに、浮いていました。

いささか小難しい話になってしまいました。
こんな話は時評編で書くべきですね。
話を戻します。

人間がわかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話。
大切なのは、「わかり合えたと思える」かどうかです。
私が節子とわかり合えたと確信できたのは、会社を辞めると節子に話したときです。
節子は何一つ異論を唱えずに、賛成してくれました。
その時、節子は私を心から理解し、一緒に生きようと思っているのだと思ったのです。
私が深く節子にほれ込んだのは、その時からです。
自分を完全に理解し信頼してくれる人がいるほど幸せなことはありません。
だとしたら、私も節子を完全に理解し信頼しようと思ったのです。
いや思ったといいよりも、自然とそうなったのです。

節子と私が、お互いのことをすべてわかっていたわけではありません。
でもお互いに、お互いのことは、知らないことまで含めて、すべて自分のことと思えていたのです。
だから私たちは、わかり合えていたのです。

節子とのわかり合い度合いが深いが故に、私にとっては、セルフヘルプグループも、全く立場の違う人のグループも、同じなのです。
むしろセルフヘルプグループのメンバーの方に距離を感ずるような気がします。
わかってもらえるでしょうか。

|

« ■最近自分への嫌悪感が高まっています | トップページ | ■「あの人たちはずるいんです」 »

妻への挽歌05」カテゴリの記事

コメント

とても共感を得たので、コメントさせて頂きます。
恋人を自死で亡くした私にとってのセルフヘルプグループとは、
「自死遺族の会」といったところでしょうか。
でも、私はこの会に何の興味も関心も抱きませんでした。
また、カウンセラーに話を聞いてもらいたいと思ったこともありません。
唯一人として同じ人間が存在しないように、同じ痛みの人など存在しませんし、
ましてカウンセラーは、共感を求めたいと思っているならば全く異質な存在です。
今にして思えば私は痛みの共感など、最初から求めていなかったのだと思います。

私が愛した人は、心に深い闇を抱えていました。
闇の中身は分からなくても、"深い闇を持っている"と知っているのは私だけでした。
そして、闇に気づいている私を、彼も気づいていました。
私たちは、分かり合えていたのだと挽歌を読んで思うことができました。

さて、このページに私が訪れるのは、愛する人を亡くした痛みを共感したいからではなく
「愛する人と別れても深く愛し続けている」ということに共感が得られるからです。
それがとても慰められるのです。
命の行方は関係ないのかもしれません。


投稿: いろは | 2010/01/22 20:41

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌873:わかり合えるのはわかり合えたと思えるだけの話:

« ■最近自分への嫌悪感が高まっています | トップページ | ■「あの人たちはずるいんです」 »