■節子への挽歌852:節子の友人からの年賀状
節子
いつものように、とてものどかな暖かな年明けです。
節子と一緒に家族みんなでゆっくりと子の神神社に初詣した3年前を思い出します。
屋上でユカと2人で初日の出を見ましたが、雲のためのあまりきれいな日の出にはなりませんでした。
年賀状が届きました。
節子がいなくなってから、年賀状を出す習慣も変わってしまい、今年も1枚も出していませんが、年賀状を見ながら返事を書くつもりです。
節子は年賀状が好きでしたが、1年に1回の年賀状のよさもたしかにあります。
節子の友人からの年賀状も何通かあります。
もちろん私もよく存じ上げている人たちで、私宛なのですが、節子への年賀状のような気がして、読んでいると少し感傷的になります。
それを察しているかのように、友澤さんからの年賀状には次の一句が添えられていました。
ふっ切れし 夫君の心をまた揺らす 年賀を許し給んと捧ぐお心遣いはうれしいですが、私は決して「ふっ切れてはいない」のです。
ふっ切れようがないのです。
自分が「ふっ切れていない」と実感するのは、慶事の出会うときです。
結婚式が苦手なのはそのせいですし、年賀状も書く気になれないのも、そのせいです。
心の奥に、まだ喪に服している自分がいます。
いえ、喪に服したがっている自分というべきかもしれません。
人は自らを悲劇の中に置くことで、心の平安を得ることができるのです。
これは節子を見送った後、体験したことです。
今年もまた始まりました。
節子がいなくなってからは、暦が変わることの意味がほとんどなくなりました。
時間の進む速度が一変したのです。
昔は、年頭には思うこともあり、気持ちを一新できたのですが、いまはダラダラと時間だけが過ぎていきます。
でもまあせっかく新しい年になったのですから、気分を改めて、もっと前に進もうと思います。
今年は明るい挽歌を目指そうと思いますが、まああまり期待はできません。
それにあまり明るく書くと節子に怒られるかもしれません。
目の前にある節子の写真がそう言っているような気がします。
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コメント
小生も10年前に妻を亡くし、それから短歌を始めました。「心の花」の会員となって、10年です。
ここへきて、「明るい挽歌」を詠みたいと思うようになりました。
死生観を深めないといけないようです。
投稿: 由雄正親 | 2016/10/28 05:44
由雄正親さん
ありがとうございます。
私のこの挽歌は、次第に日記に変わってきていますが、
いつか私も、一つだけきちんとした「挽歌」を書きたいと思っています。
10年たっても変わらないものと、
10年たてばこそ変わったものもあるようです。
短歌を詠むときの気持は、きっと心が澄まされるのでしょうね。
いつかお会いできることがあるかもしれません。
楽しみにしています。
ありがとうございました。
投稿: 佐藤修 | 2016/10/28 08:41