■節子への挽歌857:愛とは近さの創出
節子
最近の若い世代の研究者の著書にはとても触発されることが多いです。
高名な学者の著作はほとんど語りつくされた抜け殻が書き連ねられているだけですが、そうしたアカデミズムの殻を破った若い研究者の著作にはわくわくする視点を感じます。
残念ながら、私自身の消化能力が追いつけず、その本意をしっかりと心身に刻み込むよりも、先が読みたくなって、上滑りになることが少なくありません。
ですから読後、残るのはわくわく体験と短い文章だけです。
改めて読み直して、初めて少しだけ頭に入ります。
最近読んだ柳澤田美さん(南山大学准教授)の「イエスの<接近=ディスポジション>」で印象に残ったのは、「愛とは近さの創出」という言葉です。
柳澤さんはイエスの福音書などを題材にして、イエスの愛を語ります。
そして、イエスは誰に対しても尋常ではない「近さ」を感じさせることができた人間ではないかというのです。
とても納得できます。
私と節子との距離は尋常ではない近さにあったと自負しています。
私からの節子との距離はほぼゼロだったという自信はありますが、残念ながら節子の私への距離はゼロではなく一部には溝さえあったかもしれません。
人と人との距離は客観的にではなく主観的に存在しますから、どちらかで見るかで全く違ったものになります。
人と人の距離はトポロジカルであって、決して一つの尺度では測れないのです。
しかし、節子にとっても私との距離は、相対的にはおそらく無視できるほどのものだったと思います。
私が節子との愛に確信を持てるのは、相互の距離感の確信からです。
近さが愛を生むのか、愛が近さを生むのか。
柳澤さんはこう書いています。
「愛」とは、急激な「接近」とそれに伴われる情動である。これには異論があります。
そして、「接近」された人は、自ら情動に動かされ、対象に「接近」するものへと変容する。
これは一つの場合でしかないと思うのです。
キリスト教の世界には3つの愛があります。
アガペ、フィロス、エロス。
私自身は愛を3つに分けることには違和感がありますが、それはともかく、いずれの愛にも「近づく愛」と「広がる愛」があるように思います。
二次元の愛と三次元の愛です。
もしそうであればトポロジカルな、位相を超えた愛があるかもしれません。
昨年の挽歌は、むしろ「生と死」が中心の視点だったような気がしますが、今年は少し「愛」について書こうと思います。
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