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2010/01/07

■節子への挽歌858:喜びが喜びにならない不幸

節子
友人がジュンの結婚を祝ってくれますが、そのたびに残念ながら気分は沈んでいきます。
ましてや、節子さんも喜んでいますよ、などといわれると、「どうしてそんなことがわかるのか」と言いたい気分にさえなります。
性格の悪さはなかなか直りません。

以前も書いたかもしれませんが、喜びが強ければ強いほど、なぜこの喜びを一緒に味わうはずの節子がいないのか、喜びを受けるべきは私ではなくむしろ節子だろうと思ってしまうのです。
節子がいない今となっては、どんな喜びも私にはほとんど意味がないのです。
なかなかわかってはもらえないでしょうが、この気持ちはどうしようもありません。
心身がそう反応してしまうのですから。

喜びを喜べないのであれば悲しみはどうでしょうか。
そこで気づいたのですが、喜びと悲しみは同じものなのです。
悲しみもまた以前のようには悲しめないのです。

昨日、節子の縁戚の訃報が届きました。
私もよく知っている人です。
節子がいたらきっとふたりで悲しめたでしょう。
不謹慎に聞こえそうですが、悲しみを共有できる人がいないと、悲しみさえ悲しめないのです。

喜怒哀楽を楽しむ感覚を失ってしまうことが、どういうことなのか、なかなかわかってはもらえないでしょう。
もちろん外部から見れば、喜怒哀楽はそれなりに表現しているつもりです。
これもまた心身が反応してしまうようになっているからです。
でもどこかで冷めた自分がいるのです。

こうした状況は私の特殊事情かもしれません。
娘の結婚を喜べない父親は、そして知人の訃報を悲しめない人間は薄情かもしれません。
しかし、心身がそう反応するのですから仕方がありません。

もちろん娘の結婚はうれしいですし、知人の訃報は悲しいです。
しかしどうも以前とは違うのです。
私は自らが決して薄情なはずがないと確信してはいるのですが、いささか悩ましい問題です。

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