■節子への挽歌889:「喜びとはより大なる完全性へ移行すること」
「神に酔える無神論者」ともいわれたスピノザは、汎神論者でした。
汎神論と無神論は、結局は同じことです。
そのスピノザの関心は、自己の心身の能力を拡張することでした。
スピノザにとって、「喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行すること」だったそうです。
逆に、人間の身体および精神の状態が限定されることを「悲しみ」と呼び、それを極力避けることを勧めたと言います。
以上は、最近読んだ竹沢尚一著「社会とは何か」(中公新書)からの受け売りです。
「完全性」ということが何を意味するか、この文章からだけだとわかりませんが、汎神論者にとってのそれは、存在そのものを素直に受け入れるはずですから、たぶん、すべての存在に完全性を見出していたはずです。
私はスピノザについてほとんど知識はありませんが、「喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行すること」という考えには、すごく親しみを感じます。
もう一つ、心に響く言葉がありました。
「人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されている」というのです。
この文脈からいえば、「きわめて多くの部分」はまたそれぞれに「完全な存在」でなければいけません。
本書の著者の竹沢さんはこう言います。
スピノザには、個人が一個の身体のなかに閉じ込められているという発想は存在しない。人間の身体にしても精神にしても、多くの異なる個体から構成される一全体であり、それぞれの個体は外部からさまざまな仕方で刺激されつつも、全体として一貫した本性を保つことができるとかれは考えるのである。そしてこう続けます。
もし人間が周囲の物から切り離されておらず、しかもたがいに影響しあう多くの個体から構成されているとすれば、なおのこと人間は他の人間から切り離されていないであろう。スピノザにとっては、人間が社会を組み立てるのは自然なことであり、しかもそれを通じて、各人はより大なる喜びを実現できるとする。「もし二人の人間が一致して力を合わせるなら、二人はともども、その単独である場合よりも一層多くをなしえ、したがってまたともども一層多くの権利を自然に対して持つ」(スピノザ「エチカ」)。これはまさに、私の生き方の基本においている考え方です。
なぜ若い頃にズピノザに出会わなかったのでしょうか。
不勉強を反省しなければいけません。
節子がいなくなってからの「悲しさ」の正体がわかったような気がしてきました。
そして、今なぜ生き続けられているかも。
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