■節子への挽歌903:高次の世界への目に見えない入り口
一昨日の音楽の話の続きを書きます。
ベートーベンは、「音楽は高次の知識の世界への目に見えない入り口である」と語っていたそうです(コリン・ウィルソン「アトランティスの遺産」)。
その言葉を紹介している、ウィルソンは、「高次の知識の世界」に挑んだことで有名ですが、彼は「高次の知識とは、魂の深みからわき出てくる知識、特定の「方法」に頼らずに得られる知識」だとしています。
人の心に直接入り込んでくるような知識です。
それは辞書や文献で調べられるものでも誰から教えられるものでもありません。
自らが直接に会得するものです。
「秘儀的」といわれるものがその典型的なものですが、「秘儀」などいう仰々しい言葉を持ち出す必要もなく、私たちの日常生活においてもしばしば体験するものです。
ただ多くの大人たちや近代教育に洗脳された人たちには、気づかれることは少ないかもしれません。
ウィルソンはまた、ベートーベンは、音楽が知識を表わしているということには何の疑いも持っていなかった、と書いています。
たしかにベートーベンの「田園」や「運命」を聞いていると、さまざまな物語が目の前に展開されると同時に、強いメッセージを感じます。
私が遺跡に感じるのも同じようなことです。
絵画や彫刻もそうかもしれません。
そうしたものとの出会いの中で、人は現世を超えたものと出会っているのかもしれません。
寺院や教会、神殿や神社はそうした出会いの場なのかもしれません。
しかし仕組みや媒体があっても、肝心の私たち一人ひとりに、そうした感受性や受容の姿勢がなければ、見えるものも見えなくなります。
単に「音楽的な感動」で終わってしまうかもしれません。
音楽が開いてくれた「彼岸への入り口」から、自らを超えた魂の世界を感じられるように、もっともっと心を研ぎ澄ませないといけません。
雑事の中で、なかなかそうはならないのですが。
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