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2010/02/23

■節子への挽歌905:愛は関わりつつ生きること

神学者トーマス・デュペイは、「愛はケアをすることである」と言っているそうです。
また、ケアすることは「関わりつつ生きること(in-living)」とも言っているそうです。
いずれも昨日、紹介した本「アクト・オブ・ケアリング」で知ったことです。
この二つをつなげるとこうなります。
「愛は関わりつつ生きること(in-living)」

in-living。
この言葉が示す意味はなんなのでしょうか。
ネットや辞書で調べましたが、わかりません。
相手の生に入り込むような感じでしょうか。
もしどなたかそのニュアンスをご存知の方がいたら教えてください。

生の大きなつながりを感じることが、私のケア(ケアリング)理解の基本です。
そうした意識があれば、あえてケアなどという言葉を使うまでもなく、気がつくと周りにあるすべてのものがいとおしく感じられます。
しかしそうした「愛」の広がりは、時に世界を平板に感じさせ、自分の存在を希薄にします。
愛が相対化されて、実感できなくなるのです。
そうした時には、無性にある一点を強く愛したくなり、時には愛されたくなります。
その相手が、節子でした。
そうした時、節子は何の説明もなく、全面的に受け入れてくれました。

私自身は昔から「愛されること」にはあまり関心はなかったのですが、自らが愛されていないと他者を愛することは難しいことも、節子から教えられました。
節子から強く愛されていればこそ、私は周りのすべての存在を愛することができていたのかもしれません。
節子がいなくなってから、私の周辺への愛は、間違いなく萎えています。
愛が萎えると気力も弱まります。

私が今なお、さまざまなことに関わって生きているのは、節子の愛の余韻なのかもしれません。
節子とお互いに「関わりつつ生きた日々」が、いまの私の生を支えています。
強く愛された記憶は、そう簡単には消えません。
強く愛した記憶は、それ以上にいつまでも残るでしょうが。
「愛は関わりつつ生きること(in-living)」、私もそう思います。

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