■節子への挽歌906:結婚詐欺にあった節子
しつこくもまた、ケアの話です。
節子は滋賀の出身でした。私の両親は新潟です。
日本では、西日本人と東日本人の通婚率は1割程度だと言います。
おそらく文化が違うのです。
私と節子の育った環境はかなり違います。
とりわけ人のつながりが強く、信仰心の強い節子の故郷の文化は、東京とは違いました。
その東京の文化さえ、学生時代の私には古くさくて陳腐なものでした。
若い頃の私は、理屈だけの理想主義者でした。
まあ今様に言えば、つっぱっていたのです。中途半端に、ですが。
なぜその私が、節子に惚れてしまったのか。
大学卒業後、入社した会社での配属が滋賀でした。
そこでこれまで知らなかった「文化」に触れました。
理屈で生きてきた「跳ね上がった若者」は、たくさんのことに気づかされました。
そこから人生が変わったのかもしれません。
向上での4年間は、新しい発見の連続でした。
そのうちに、学生の頃から付き合っていた女性にも見事に振られました。
あんまり東京に戻らなかったからかもしれません。
そんな時、出会ったのが節子でした。
節子のどこが他の女性と違っていたのか、よくわかりませんが、たぶん私たちは「文化」の違いを直感的に理解しあいました。
そして、今から考えればですが、お互いに in-living な関係になったのです。
これもまたおかしな話ですが、当時、私はSF(空想科学小説)にはまっていました。
工場にあった企業内学校で産業心理学を教えさせてもらったのですが、そこで話していたのは超能力の話でした。
現実主義者の節子には、全く理解できない世界です。
しかし、その節子の世界の極にある私の世界に、節子は誠実に対応してくれました。
節子は、後になって「あの頃の修さんの話は、どこまで本当で、どこから嘘なのかわからなく、信じていいのかどうかわからない話ばかりだった」と言っていました。
しかし、同時に「私が嘘をつけない」こともすぐ実感してくれていたようです。
つまり私の話の、「嘘のような」話も含めてすべてを、そのまま素直に心で受け入れたのです。
つまり、私をケアしてくれたのです。
長々書きましたが、私が「ケア」を意識した最初は、節子の私への対応だったのです。
そして、理解できないままに、節子は私との同棲を始めてしまったわけです。
私は当時、形式的な結婚に反発して同棲にあこがれていたのです。
まあ、悪く言えば、節子は「結婚詐欺」にあったようなものでした。
ケアの話のつもりが、「昔話」になってしまっていますね。
実は今日の書き出しの時に考えていたのは、「アクト・オブ・ケアリング」に出てくる次の一文です。
ケアを受けることは、人間存在の発達に対してばかりでなく、その人間存在のケアをする能力の発達にとってもまた本質的な意味を持っている。
この文章で思い出したことを書きだしたのですが、なかなかそこまで行きません。
行きついたのは、「結婚詐欺」も「ケア」には勝てないという話です。
ケアは、メイヤロフも言っているように、人を成長させるのです。
長くなるので、続きは明日にまわします。
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