■節子への挽歌883:無縁社会
節子
今日は雪が降るそうです。
空が寒々としています。
そのせいでもないでしょうが、とても深刻な相談が朝から寄せられてきて、ようやく元気が出そうになったのに、重い気分に襲われています。
人はどうして世界を見ようとしないのでしょうか。
私もそうなのかもしれませんが、自分の世界観で見える世界しか見えていないようです。
自分だけの世界で生きるのであれば、生きる意味はないようにも思うのですが。
それに、自分の世界だけで生きられるはずがありません。
そういう錯覚をつくりだしたのが、工業社会や情報社会なのかもしれません。
最近、NHKは「無縁社会」をテーマにした報道番組を繰り返し放映しています。
昨日は無縁死の特集でしたが、昨年は3万人を超える無縁死があったそうです。
3万人などとまたいつものように数で処理するのかと腹立たしくなりますが、そこからNHKは何をしようとしているのでしょうか。
まだ懲りないのでしょうか。
最近のテレビは問題提起だけで終わっていますから、問題を拡散するだけの役目しか果たしていません。
それは彼らもまた「無縁社会」の中を生きているからです。
とまあ、こんなことを書いていると挽歌ではなく時評になってしまいますね。
今日、書こうと思ったのは、そうした報道への怒りではありません。
その番組を見ていて、私は全く違ったことを考えていました。
縁とはなんだろうか。
前にも書きましたが、因縁、縁起は世界の創造原理です。
因縁は「存在の関係性」を表していますが、仏教によれば、すべての事象はそれ自体、孤立して存在するのではなく、相互に依存しあって存在しています。
色即是空の世界です。
縁起は「運動の関係性」で、私たちの生でいえば、自分の中にある「因」と世間の中にある「縁」の触発の結果、さまざまな人生が展開するわけです。
縁がないはずがないのです。
孤立死もまた縁によるものであり、無縁仏などはあり得ようはずがないのです。
神に支えられているキリスト教と違い、仏教では人は世界に支えられているのです。
なにやら小難しくなってしまいましたが、
昨日テレビを見ながら、いま欠けているのは「人のつながり」ではなく、「つながりを確信できる文化」ではないかと思ったのです
そして、当然のことながら、節子とのつながりを考えたわけです。
私と節子のつながりはどうでしょうか。
節子はもう現世にはいませんから、私が息を引き取る時には節子はいません。
しかし節子とのつながりを確信していたら、そこに居るかどうかは関係ないことかもしれません。
縁とは「あるもの」ではなく「確信するもの」。
昨日の無縁社会の番組を見ていて、それが私の感じたことです。
「無縁社会」などという言葉を、もっともらしく広げていってはいけないと思いました。
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