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2010/02/21

■日本人は無宗教なのか

この頃、どうも「時評」をする気になかなかなれません。
政治も経済も、マスコミで話題になるのは私には全く興味のないことばかりだからです。
話題の国母事件にしてもテレビの報道の仕方や関係者の発言には、「おいおい」といいたい気分です。
そこで今日はちょっと大きな話題です。

いろんな集まりで、日本人は無宗教だという発言に時々出会います。
私は、日本人ほど宗教心の厚い国民は世界には少ないのではないかと思っている人間ですので、そうした発言を聞くと反論したくなるのですが、おそらくそれは「言葉の定義」の問題ですので、黙って聞き流すようにしています。

欧米はどうでしょうか。
神が死んだと言われて久しいですが、形式的には宗教教団の支配はまだかなり残っています。
神が死んだ宗教は「管理教団」でしかないと、私は思いますが、それに比べると日本の仏教界の組織はどうでしょうか。
葬式仏教と言われるほどに、運動面は弱いと批判されています。
しかし、葬式仏教で何が悪いのかとも思いますし、教団活動がないことが悪いわけではないでしょう。
ここでも私たちは、近代西欧の発想に呪縛されています。
仏教界がやれることは多いと思いますが、だからと言って政治の世界に出てくるような教団には、私は信仰や宗教性は感じません。

私は、自分の宗教心や信仰にはそれなりの自負があります。
でもだからといって、とりわけ何かをしているわけではありません。
ただ、生命のつながりを感じ、お天道様に怒られないようにさほど悪いことはしない程度の生活ですが、宮沢賢治に共感し、隣に気になる人がいれば気にするようにし、自分にできることはできるだけやろうとしています(やっているとは限りません)。
それになによりも、天の摂理を信頼し、霊的な存在にも心を通わせています。
来世も信じていますし、過去生の思い出もそれなりにあります。

神のために死のうとは思いませんし、神のために生きようとも思いません。
しかし与えられた自らの生は、誠実に生きようとしています。

私のような生き方をしている人は決して少なくありません。
私が地方や現場にこだわるのは、そこにはそうした人たちがたくさんいるからです。
私には、その信心深さにおいて足元にも及ばない誠実な人たちと出会えるからです。
そのうえ、たくさんの清浄な霊にふれあい、自らが浄化されるからです。

日本人の信心深さ、宗教心の豊かさに出会うたびに、日本に生まれたことをうれしく思います。
その日本の文化が、壊れてきていることが、とても寂しく哀しいのですが。

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