■節子への挽歌907:ケアの意味を教えてくれた節子
「ケアを受けることは、人間存在の発達に対してばかりでなく、その人間存在のケアをする能力の発達にとってもまた本質的な意味を持っている」。
昨日の挽歌の続きです。
付き合い出した頃、たぶん節子は私と結婚することなど思ってもいなかったと思います。
私もそうです。
それぞれに付き合っている人もいましたし。
私たちの付き合いの始まりは、そういうものではなかったのです。
とても無邪気で、ちょっとゲーム的で、節子の友人はきっと節子にあまり深入りしないようにと忠告していたはずです。
たしかに当時の私は、いささか危ない存在でした。
にもかかわらず、いつの間にか結婚することになってしまいました。
私のプロポーズの言葉は、「結婚でもしてみない」でした。
よくまあ、あの真面目すぎるほど真面目な、謹厳実直な節子が受けたものです。
そして、節子の両親宛のメッセージを吹きこんだテープを節子に渡しました。
BGMは、当時大好きだったオスカー・ピーターソンの「カナダ組曲」でした。
呆れてものが言えません。いやはや。
それを聴いた節子の両親は私に会いに飛んできました。
どこの馬の骨かしらないが、なんという「たぶらかし方」だと思ったとしても決しておかしくありません。
何しろ節子は、世間のことをほとんど知らない、清純で無垢な女の子だったのですから。
しかし、私もまた、世間のことを何も知らない無邪気な男の子でした。
慌てて飛んできた節子の両親は、なぜか私と会うと納得してしまいました。
人生は不思議なものです。
犯罪が成立するためには「犯意」が必要ですが、この詐欺行為事件には残念ながら「犯意」が不在でした。
なにしろ行為を仕掛けた当の本人が、一番、はまってしまったのですから。
そして、いつの間にか私は節子に、これ以上ないほどに惚れこんでしまったのです。
節子の私への惚れこみ方は、実はたいしたことはありませんでした。
いささか口惜しい話ではあるのですが、
今日もまた、昔話になってしまいました。
すみません。
実は次のようなことを言いたかったのです。
私は節子の全面的な「ケア」を受けることによって、成長したのです。
そして、私のケア・マインドもまた豊かになったのです。
「ケアを受けることは、人間存在の発達に対してばかりでなく、その人間存在のケアをする能力の発達にとってもまた本質的な意味を持っている」。
この言葉にとても共感できたのは、そういう昔話があったからなのです。
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